2008年10月30日木曜日

ユダヤ人③さらに生き延びる


昨日は成蹊大で中国と沖縄の映画という催事があり行ってきましたが、山形の叔父が関連している山形の映画祭の協力によるものだということが分かった。

文化大革命を描いた「私の紅衛兵時代」監督呉文光の上映でした。理不尽な革命でしたが、ピーター・フランクルさんの父上も同様でした。

ユダヤ人③さらに生き延びる

ハンガリー人のファシストはユダヤ人を見つけると、そのときの気分次第で銃殺してしまうことがよくあった。正式な身分証明書をもっていない父にとってブタペストはあまりに危険に満ちていた。そこで強制収容所にもどり、やがて終戦を迎えた。しかしハンガリーの兵隊とともに、ソ連の捕虜にされた。健康状態の検査があった。健康と診断されるとソ連に連行されるのだった。

今度は南部のソ連軍の強制収容所にいれられることになった。道すがら父はオーバーコートと「ハンガリー・ロシア語辞典」と交換し、ロシア語の独学に励んだ。つぎにパンと引き換えに赤十字マークのついた腕章を手に入れた。

収容所にはからだの弱い人だけが残っていた。ここの看護卒が父の腕章をみて

医者だったら自分の梅毒を治してくれないかと頼まれ治した。

父は連行される途中で知り合ったハンガリー人のトコディを看護卒にしたてて、毎日治療を行った。トコディは大柄で頑丈な男だったが、健康診断のときに湿疹ができていていたので、別の梅毒を治してあげた看護卒が触ったら「できるだけ、大声で叫びなさい」と教えた。その通りにしたらソ連行きを免れることができた。以来彼は絶対の心服を寄せるようになった。ここでソ連人の収容所長の胃潰瘍を手術した。この手術で父の地位は確実なものになったが、失敗していたら、きっと殺されていただろう。

収容所で死亡率のきわめて高いチフスが流行した。

父はシラミに噛まれるたびに、しらみをテーブルの上において調べた。ある日シラミがのろのろしか動けなかった。チフス菌に感染していたのだ。

トコディに「ぼくもチフスになるよ」といい、そして治療方法を教え、けっしてあきらめないように頼んだ。トコディの必死の看護にかかわらず、1週間後に父は意識不明におちいった。やせ細った父を見て周囲の人々は死人として扱おうとしたが、けっして諦めなかった。さらに一週間後に父の意識は回復しその2週間後には人の手をかりて他の病人の治療を再開できるまでに回復した。

世界青春放浪記:ピーター・フランクル(世界的数学者、大道芸人、11カ国語を話す、ハンガリー生まれのユダヤ人)

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