2008年10月2日木曜日

日米医師の対応


もう半袖はしまってもよいのかもしれないが、もう一週間は待ってみよう。3日前の月曜日の昼にたまたま車も止められ、すぐ注文が手元に来る速さ抜群の大型ラーメン店に入った(ファミレス規模)、平日だから空いていると思ったら、順番待ちでした。皆温かいものに寄ってきています。

石に言葉を教える:柳田邦男:新潮社より

十数年前に出会ったある若い母親がそうだった。結婚して初めて迎えた出産。生まれた男の子は、「二分脊髄」という重度の障害をもっていた。

医師の説明は「手術すれば、24ケ月生きた例があります」というものだった。

彼女は22歳、治療を尽くしても、2年しか生きられないかと思うと、絶望的になった彼女はこの子と一緒に死のうとまで思いつめた。だが彼女の母親が娘の表情から鋭く察知して「死ぬのはやめなさい、この子がかわいじゃろう」といった一言で思いとどまり、思い直したのだ。思いつく限りの病院や施設を訪ねて可能な限りの治療と療育を受けさせた。男の子は見事に生き抜き、とうに成人になり、車椅子で仕事についている。

 江口敬一氏は1949年生まれ、YKKというファスナーとサッシのメーカーの米国子会社に勤務していた。次男がシアトル市内の病院で無事生まれ夫妻はこころから喜んだ。しばらくして医師は「残念ながら祐介君は染色体検査の結果、ダウン症であることが分かりました。知的障害もあるのです。」夫妻は大変なショックを受け、体中の力が抜けた。しかし医師は医学的な説明で終わりにしなかった。「あなた方は障害をもった子供を立派に育てる資格と力があることを神様が知っておられてお選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育てあげて下さい」――と。親が求めているのは医学的な評価ではない。生きる支えとなる言葉なのだ。もっとも日本の小児科医や産婦人科の中にもこういう対応を実践している医師がかなりいる。江口夫妻は、親としては今の仕事をなげうっても何かしてやりたいと思うので「ファーザーズ・プログラム」が進む中で相談したセラピストは「親は動転して、なかには会社の仕事を辞めてしまう例もあるが、家計収入が大幅ダウンし、治療費や介護費のねん出が困難になる。特に親子が精神的に癒着して過保護となり、子供の自立心の芽を摘んでしまう。かといって父親が仕事で多忙すぎるのは母親の負担になってしまう。そういう厳しい現実もあるが、とにかく今すぐになすべきことは言えないが、必ず出番が出てきます」といわれた。

障害児の子育ては2つの言語を習得するバイリンガルは難しいので、なにかと手助けが得られる祖父・祖母・友人がいる日本がよいということで帰国した。

本当によく育てたのですが、祐介君は自立のための仕事の元手となるヘルパーの2級を努力を重ねてとり他人の身辺介護まで出来るまでになった。知的障害者がこの資格をとったのは大阪では初めてだった。

そのうち父は特例子会社(障害をもった人中心の会社でいろいろ特典がある)を思い立ち、YKKの商品のカタログ[年間30億円このうちの3億円分の仕事を受託]の印刷会社の資本金も吉田社長の理解もあって2億円出資してくれることに。これはあの出番がありますよといわれてから14年を経過していた。

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