2009年3月31日火曜日

踏切


昨今各駅にエスカレーターとエレベーターが設置されたことは素晴らしく、また有難いことです。しかしながら新たに残念な点が生じました。
   それは踏切です。優先順位からいえば西武線新宿線の東伏見駅のとくに東よりの部分です。生協が南側にできたことで、この踏切の往来する通行人が飛躍的に増えました。車の往来に加え、その両側に人と自転車の往来も加わるのです。しかし歩道の幅分絞ってありますので、現在の全体の踏切の幅は往来する2つの車線と片方向一列の人が通れる幅でやっとです。ですから自転車と人は両方向の通行のために、どうしても線路の砂利に降りる人が生じていますし、安全面を考え自転車を押しながら通過するには余裕がありません。これを解決するには、往来の多い東よりの部分だけでも、さらに1.5m位の拡幅を必要とします。車いすの人も敬遠していることも考えられます。これは案外他の踏切でも見られる傾向に思います。是非こうした面の改善策を望む次第です。

2009年3月30日月曜日

集いの花は咲きました


おはようございます。天気が心配された下記行事も盛会のうちにおわりました。

3/29は市のボランティアセンター・市民活動センター・「ウオーキングでエコ西東京2009」が花冷えの中武蔵野大学生の協力もありました。
ウオーキングは西武池袋線ひばりが丘から西武新宿線の田無近くの庁舎まで短い4kmで、ゴミを拾いながら、田無神社の文化財の解説もあったあり、道すがらゴミもたくさん見つかりました。いままでは総合福祉センターで実動のボランティアが集まるだけよりは、外に出て肩肘なく楽しいことなんだを知ってもらえたこと。
人形劇(青虫やパンダが踊る)、手話ダンスの踊り手は声を出さないで、手先に幸せの歌詞を、顔の表情を豊かに、手品は牛乳を新聞にいれ、点火後は空のコップ、東京音大生の「ボギーとベス」は元気な子守歌は人種のちがい、ゴミの分別クイズ、松本かなさんのライブ、アニメのエクラアニマルさんのぬいぐるみ、まずは役者ぞろいで、楽しい催事でした。ボランティアの繋がり・ひろがり・惜しみのない笑顔の交換会でした。まさに老若男女の壁はありませんでした。

2009年3月29日日曜日

生キャラメル


おはようございます。今日は「ボランティアの集い」でウオーーキングとステージ会場と二つありますが天気に恵まれ、安心しました。

 札幌駅構内で100Mは並んでいる列があって、それはタレントの田中義剛の生キャラメルの人気は異常なくらい。まだ食べてもいないが、買いたくなくなったのは売り方に疑問を呈するところがあったからです。飛行場の手荷物検査終了後の待合室の横に花畑系の豚丼屋とケーキ&喫茶店があった。順番を待つイスが用意されていて10組位が常時席にいる。
きっとそれらも美味しいのだろうが、入口の看板に「ここを利用された方は生キャラメルを6箱購入できます」とあります。この生キャラメル方法を買う方法としては、搭乗待合室にいる人の特典ですよと言わんばかりである。
しかしこちらも手ぬかりで、ここを出てくる人がこの生キャラメルの袋をもっているかを確かめるのを忘れてしまったが、待っている人がいないように販売量を増やすのも一方法ですが、この人気も一過性のものかも知れないので、急に生産体制を増強するのも考えものですが、特典表示の看板だけはどうしても気に入らない。
http://www.hanabatakebokujo.com/sweets/

2009年3月28日土曜日

旭山動物園②


写真は熊の頭部です。

旭川にあるのに、旭山というのは、動物園が旭山にあるからだそうです。
もう3月の下旬なのでこのペンギン様のお通りは見られない場合もあるとかであったが、幸いにもみることができた。
猛獣を見れば、皆決定的なシーンを撮影したいのですが、じっとはしていないので、瞬間を撮るのは極めて難しい。帰ってから写真を見ると、胴体だけ、あるいは後向き、横向きなどが多かった。
ここの人気は、気持ちとしては手を伸ばせば、目の前の檻の鉄棒によじ登る熊のお腹に手が届く位に見える。思わずのけぞるのですが、強化ガラスがあって大丈夫なのです。
こうしたことも、この動物園の存続が危ぶまれるほどの来客数になってから、公務員でありながら来園者の気持ちになって改善に改善を重ねた工夫が実を結んだそうです。
ちょっと残念なのは、連休などのときは混雑で食事もままならない、園内の奥の方の休憩室に持参の食事を持ち込まないと、弁当を買うことも、サンドイッチを買うことも、ましてやレストランを利用することもままならない。トイレも同様に混雑振りだった。

2009年3月27日金曜日

旭山動物園




札幌から高速で往復6時間の旅だった。いままで見た動物園だったら、大体夜行性が多いので、昼は寝ている動物が多い。ライオンでも、ヒョウでも猛獣と言われるのは、檻の柵があって近くても10Mは離れている。ところがこの動物園の人気の秘密は、強化ガラスで仕切っているので、わずか30CM位の距離に見えるのです。猛獣から見られているような錯覚さえ感じるのです。かれらもすこぶる愛嬌がよいのです。この動物園は冬が一番時期がよいそうです。
白熊も、狼も、アザラシも北国らしい動物が待っている。
写真が撮れる1分しかないのですが、それでも見たという満足感はあるのです。
大名行列のような、ペンギン様5匹のお通りもあったが、40M位の道の長さ、幅は4Mくらいで、あのヨチヨチ歩きでも5分もかからない。
どの動物の檻にも、15時25分で終了しますと掲示がありました。
聞こえてきた声はこの連休は今までで一番混雑ぶりよというのが聞こえてきた

http://www.ensuisha.co.jp/welfare/07-odekake/07-odekake-006_1.html

2009年3月26日木曜日

カワセミが2羽


おはようございます。昨日のテレビでの映像で山形は降りしきる雪でしたね。こちらでは嬉しいニュースがありました。シニアかわら版の新聞の発行に関して、市の提案補助事業の3年目の継続申請の打ち合わせ(20万円弱)で帰宅したら、緊急連絡で何事かと思ったら、ある基金から10倍のお金の援助の内定のニュースで、今度は市の継続を辞退しなければならないことになった。まるで妖精のカワセミが飛来したようだった。

武蔵関公園の池
今年もカワセミを撮影する人が口径25CMはする望遠レンズにフラッシュをつけて待っている。膝元には餌を捕獲し、水面から、両方の羽根の表がくっつくほどにはばたき、飛び上がる瞬間のカワセミの姿の写真が置いてあった。「素晴らしいですね。こんな写真は相当に枚数を撮らないと難しいでしょうね、100枚位ですか」と聞くと、手を横に振って「250枚位ですね。まだ昼なのに、フラッシュをたいているのは、動物は目が光っている姿をとらないと生きたように見えないからですよ」という。そんな時、雄のカワセミが、逆L字型の50CMの枝にとまったかと思うと、素早く下の魚を入れてある桶に向かってダイビングした。飛び上がるときには、もうキビナゴ位の魚を口にくわえている。飲み込むと又ダイビングを5回ほどくりかえした。2秒位のわずかな時間、他見をしている間にどこかに飛び去ってしまった。そういえば付近の下藪を刈り取っての準備とか野鳥の撮影班の努力も大変なものだった。秋のころにはこの公園の野鳥写真のアンケートが行われ、当選者にその写真が贈呈されるが、応募者多く、当選確率は極めて低い状況です。

カワセミの撮影は昨年の3月13日でした。
写真の展示は10月12日からでした。

2009年3月25日水曜日

山の物語②


おはようございます。遠く遠くつらなる連山が見えるところに行きたい気持ちです。今日もお山のお話しです。

信州八ヶ岳との背比べ伝説には、先の話とは少し違った趣をそえている。
富士山より八ヶ岳のほうが少し高かったのである。
しかし何といっても、目測では何とも判定しがたいので、阿弥陀如来に仲裁をたのんだ。
「よしよし公平な審判には正直な水のながれできめよう」といい、二山に樋をかけた。水は富士山のほうに流れていった。
勝負は決まった。ところが、富士の女神は、怒って八ヶ岳の頭を足蹴りにした。たちまち頂上が崩れおちて八の峰が出来上がった。
以来その山を八ヶ岳と呼ぶようになった。

富士山:3776m
八ヶ岳:2899m(赤岳)
白山 :2702m
愛鷹山:1505m(越前山)
榛名山:1448m

富士山歴史散歩:遠藤秀男著:羽衣出版

2009年3月24日火曜日

山の物語①


おはようございます。山の物語であっても、山なら背くらべしたくなるでしょうし、その粗筋の物語には感心します。

富士山に対抗して、関東からは筑波山、東北からは岩手富士、津軽富士、など続々名乗りをあげた。

だがいずれもあっけなく、敗退した。ところが加賀の白山だけ裏日本の山々に勝ち進んできたその偉容を誇って、堂々と勝負を申し込んできた。日本中の山は思わずカタズ
を飲んだ。
「これはどちらに軍配があがることだろう」「いやア、予測さえつかないね」「富士はすらりとしているから高そうに見えるが、実際には白山に分がありはしないのかのオ?」
「いやいや、富士山は真実たかいぞヨ。」雲より上に顔を出すほどあるからのオ・・・」
こうした講評はあちこちでささやかれたが、結局だれにもその判定はできかねていた。そこで審判を選出することになった。すぐに名乗りをあげたのが、甲斐の白根山と八ヶ岳で、それに信濃の御嶽さんが加わっていよいよ最終決定戦を迎えた。諸山はこれを見ようと背伸びをし、顔を出し、湧きあがった。「それでは・・・」審判の一人が口を開いた。ざわめきは消えて行き、緊張した空気が漂った。水をうったような静けさの中で。
「ただいまの測定結果を申し上げます」審判の声は重々しい。
「富士山と白山とはまことに同等なものでありまして、その決定が困難なのであります。」ワアと緊張は緩んだ。東北の山々も関西の山々それぞれに自分たちの主張をして騒ぎ始めた。
「えー、静かに。そこで・・・・・二つの山に樋をかけることにしました。」樋?あまりに唐突な言葉に、みんな口をつくんだ。「水のながれる方向が低い山になります」
そして水を流す役目が御嶽さんにきまった。水が注がれると水が双方に流れた。皆がかたずを飲んで注視するその水があるところで急にとまった。富士さん側から水が後退して白山に流れている。あわてた白山側は一人ワラジをぬいで樋にさしこんだ。すると水は平衡となった。そのときすばやく審判の声は「富士山の勝ち!」しばし拍手は鳴りやまなかった。がっくりと白山は泣き崩れた。こうして山の背くらべは終わった。だがこの負けた白山には諸びとは、登山のとき山頂で新しいワラジにはきかえ、古いものは積み上げて下山するという習わしを残すことになった。

富士山歴史散歩:遠藤秀男著:羽衣出版

2009年3月23日月曜日

他感性


国分寺市に真姿の池という湧き水がコンコンと出るところがあります。そこにアオコという藻が発生し、水面は緑色となり澄み切っていた水底が見えない事態になった。そこで他の池で発生したところ、していないところ、とくに名園の池には発生していないことがわかった。それは池の周囲にあのゆき柳が植えられていた。他感性と言って他の植物を育成を抑制する力によるのだそうです。

気楽な性格テスト


おはようござます。きょうは気楽な質問です。


あなたは次のくだものでどれがすきですか?


1.パイナップル
2・みかん
3.りんご
4・イチゴ
5.梨


答え
1しんがしっかり
2あたたかい
3クール
4不平もの
5甘えん坊



理由
1芯がしっかり
2あたたかい地域でできるから
3冷たい地域でできるから
4ゴマ粒みたいにぶつぶつ
5汁がペタペタだから


納得いきましたか。

2009年3月20日金曜日

はとバスの努力



はとバスの筆頭株主が東京都というのもしりませんでした。20世紀末には2年続いて赤字
になった時に真剣に考えよみがえったという方法がこれはなるほどという手法です。
簡単でありながら最も効率の良い方法なのです。顧客の心をとらえる方法として
「はとバス」にかぎらず、サービス業に当てはまる対応だという。
それが、客の「つぶやき」を聞く・・・・「はとバス」の管理者「客体験」制度です。これは管理者80名が毎月1回自腹をきって乗車する
制度です。「はとバス」の提供する「定期観光バス」とは「案内付きの豪華な路線バス」を指します。いかにも簡単そうですが、実は大変な努力がなされているそうです。商品企画としては、まずお客様があきないこと、見学場所は季節や時代によってどんどん変わります。そして交通渋滞の計算、さらには食事時間のタイミング、これらのことを多くのスタッフでパーフェクトに仕上げて、やっと商品になるそうです。
お客様の満足(裏返せば苦情)をどう維持してゆくかということが最大の課題です。
●管理者は毎月1回、お客様として料金(平均8000円)は自腹、客として接客、食事の内容を確かめる。食事をしているときに漏らすお客様の本音を聞く、自分は耳を澄ましているだけだそうです。

苦情学:関根眞一:苦情クレーム・対応アドバイザー、恒文社

2009年3月19日木曜日

八卦


おはようございます。昨日はうどんを食べてたら、背中に汗が溜まるほどの温かさでした。辛夷の花も一日で広げて、大きな口をあけたようです。ところがマイミクさんの「白ヤギさん」話では多摩川の堤にはもう桜が咲いているという写真もそえられていました。


八卦とは易(『易経』)の基本の形であって、これによって人間の置かれた現在から、進むべき未来への動向を占うものですとあります。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるが、本来は神の手にゆだねられているはずの運命の世界に、易を通じて人間が食い込むことから始まった。人間の神からの独立である。住まいを確保し、火を使いこなし、しかし天変地異などについては神のなすがままであった人間世界に、蛇身人首(仏教の宇賀神:穀物の神とされ、天女形の像が多いが、白蛇を神として祭ったものである)の異形の聖人が出現し、ついに神の手を離れ、自立の道を歩み始めた。易によって、現状を知り、未来への指針を得る。「これからは、人間のことは人間の手で」やらせていただきますよ」という宣言だそうです。

史記物語:渡辺精一:講談社

2009年3月18日水曜日

タイの国のお話③最終回


おはようございます。女子高校の傍を通ったらいつもの歩道の反対を歩いている。別に大きな講堂の卒業式に向かっているのでした。

今日の友人の句は北海道生まれなので、冬景色も実感がこもっています。

地吹雪や 馬の鼻面 膨らめり

本題はで、雪国とは違うタイの国の出来事の続きです。

筆者はカンティアの故郷、はるばる北端のミヤンマーとの国境にちかいところにいる母親を訪ねた。しかしカンティア14.5歳であることが分かっただけで、行方の手がかりは何もなかった.
姉を頼ってバンコックにきたものの、訪ねた住所には彼女はいなかった。やがて路上で物売りの手伝いをするようになった。物売りの人たちも貧しかった。みんなはお金持ちになろうと思ったら、
日本製品みたいな高価なものを売らねば儲からないと話していた。あとは路上の物売りの大人たちと話しているとき、誰かが冗談で「おまえは北の方からきて色が白いから、日本人みたいに
見える」と言われた。その時から日本人になりたいと思った。それもただの日本人ではなく、日本大使の娘だといえばより大切にしてくれた。
歌謡曲やアイドルのことばかり書いているタイの国の週刊誌には、日本語の学習ページもある。それを読んでカタコトの日本語ができるように勉強した。又ラムカーン大学の図書館にもぐり
日本について書いた本も読んだ。あのフェアマークスタジアムの管理人と立ち話したとき、言ってみた「私は日本人で、日本大使の娘です」と。こういう話を聞かされた大学生は、
「さびしかった」といっていたので「カンボジヤ大使の娘とか、インドの大使の娘と言われたら、きっと僕らは関心を持たなかった。又関心も示さなければ騙されることもなかった。
それはやっぱり日本だからですよと彼らは微妙な答えをした

【エピローグ】
姉のところにもう一度訪ねたときに、ユウコと会ったことがある姉の元恋人はカンティアが日系のデパートのある東京のファッションをコピーを売っているブティックの一角で働いていた
話を聞き込んだ.くまなく歩けば、いるかいないかだけでも分かると思いいってみた。幸いにも見つけることが出来て、話を聞くことができた。「たくさん知る必要はなかったよ。
だってタイはどこに行っても、日本製品があふれているのに、誰も日本や日本人について知らないんだから」だますのは簡単?「だんだんわかってきたの」何が?「どうすればだませるかがね」
どうすればよかった?
「私が威張っていえばよかったの。『たいはこのままでは駄目だ、タイ人は一生懸命働いていない。日本を見習え』って強く言えば言うほど、私のことを信用するの。
そのときは何でもできるような気分になったが窓の下を見る彼女の姿は目を細め、煮え立つような街を眺める顔に、外からの照り返しが当たっている。それはユウコではなく、たしかに
タイの少女の顔だった。この話も今のタイの国の出来事ではなく、昔のことと付け加えたほうがいいと思います。

日本人ごっこ:吉岡忍著より

2009年3月17日火曜日

タイの国のお話②


おはようございます。もう辛夷の花が拳のを広げる寸前です。今日も暖かいのでもう開くかもしれません。
タイの首都バンコックである教授から聞いた話があった。カンティア・アサットは父親が日本の大使の娘だと100日も大学生の
前で、詐称し大学生を煙にまくほどの能弁家だった。なんかの弾みで露見してしまった。怒った大学生は少女を警察に突き出したが、彼女は逮捕も、補導もされなかった。たいした実害がなかったことが、その理由だった。この少女にあって話を聞いてみたくなってこの物語は始まる。
   まず大学にいって大学の部長にあったが、真っ先に信用したのはその部長だった。かれの話によると、一通の書類をみせてくれた。
『ユウコは日本の大使の娘で、現在はタイ国内の視察のために、各地を旅行中である。わが国民に、彼女から依頼があったときは丁重に応対するように要請する』とちゃんと活字の文書で、役所の便せんだった。大学の隣の市営スタジアムの管理事務所で拝借したスタンプまであった。誰だって疑うよりも、興味を抱くじゃありませんか。
カンティアはここでも赤いトレナー姿だった。152.3cmのポチャとした少し小柄な女子大生のように見えた。彼女はペラペラ日本語をしゃべってみせた。学生等と話すとき、タイ国王一家とも親しく、私の父が大使として、着任したときに、私はシリントーン王女からタイ語を教えてもらったともいった。もうこうなると、タイ王族とも親しいとなると、大学生等も軽率な言葉を慎まねばならない。
12歳かそこらで北部の田舎からバンコックに働きに出てきた少女は
誰も見向きもされない子供にすぎなかった。それがいまほんの一言、日本人のユウコと名乗り、日本大使の娘だというだけで、こんなにもみんなに注目され、大事にされ歓待されたのだと。
学生が雑誌で東京の原宿ってどんなところですかと聞いた時があったが、「日本ではタイの国王にあたる高い地位の人の親戚で暮らしているので、庶民の集まるところへは行ったことがない」といってた。
日本人ごっこ:吉岡忍著より

2009年3月16日月曜日

タイの国のお話①


おはようございます。今はきらっとシニア倶楽部で「シニアかわら版・西東京」という新聞を月刊で発行して3号、これは2年目の市の提案事業の継続承認で、来年度も
申請してコンペに応募しようというための打ち合わせでした。次は「多摩検定」のための講習会とこの新聞をリンクさせようという提案にしようと思います。

戦後日本の家電メーカーのなかで初めて外国に駐在員を派遣したのは、1957年(昭和32年)で松下電器だった。駐在員事務所を置いたののはタイのバンコックだった。トランジスターラジオの発売はそのちょっと前の1955年(昭和30年)だった。そのころタイで売られていた扇風機やラジオのおおくはアメリカやヨーロッパの製品だった。当時の日本製品は欧米の製品にくらべ、格段に安かった。しかし性能や品質やデザインは相当に見劣りするものだった。日本の家電メーカーは欧米製品のサンプルを買うお金さえなかったので、スケッチした情報を日本に送っていた。こうしてわずか2・3年で欧米の製品を締め出してしまった。一にはこの市場は欧米でそれほど魅力的な市場とは思われていなかったのも幸いしている。
   そのタイはミヤンマー、ラオス、カンボジャに国境を接していて、バンコックで捌ききれない製品はタイ人が売る限り、タイ国外へ流出しても問題がなく、ベトナム戦争の米兵らの休養地であったバンコクで購入した家電製品を持ち帰ったことで、優秀な品質となっていた日本家電製品
は世界に認められるキッカケを掴んだそうです。
日本人ごっこ:吉岡忍著より

2009年3月14日土曜日

自助努力の村②


おはようございます。昨日は田舎は山形県の日本海側庄内地方の仲間と会い映画「送り人」の撮影現場はどこか、とか放送大学の仲間を藤沢周平について山形までいって案内しなけらばならないという話もありました。

昨日の続きでです。
北海道や茨城県で先進的農業を学ぶ、乳牛の乳しぼりや農業機械の操作を勉強する。それと並行して、胎内川沿いの段丘を崩してたいらにし、10人で共同で働くための田圃と村営住宅を建てる工事が進んだ。農林省の農用地開発機械公団から、運転手ごと借りてきた大型ブルトーザーで造成し、当時の黒川村の戸当たり平均耕作面積1.2haだったのが、いっきに20数戸分任されることになってしまった。
1961年(昭和36年)には10組の合同結婚式がおこなわれ、あっという間に20人の若夫婦の村になった。しかし出稼ぎがなくなった訳でもなく、下流の地区の田圃の収穫量の3分の1だった。いくつもの困難にぶつかった。布川は農業改良普及員にもなったがラジル移民でもしようかなどと考えたこともあった。いくら走りまわっても現実はそう簡単に変わらない。布川が村長にであったとき、村長はドイツに農業研修に行ってみないかと意外なことを言われた。
降ってきたチャンスで、何十倍もの競争率の県と全国の試験をうけて見事合格し派遣されのはわずかに9人だった。
ドイツにいって驚いたのは、同じ敗戦国なのに、アウトバーンにもびっくりした。女性がトラクターを動かしているのにも驚いた。
昭和30年代の10年間だけ行われた派米短農業のほうは、アメリカの農場で2年働いて100万円貯めようというストレートな目標を掲げていた。都会のサラリーマンが毎月3万円程度で暮らしていた時代である。 
布川は帰国後役場職員になって、米収穫量の悪いのは水温を上げなければ、それには一部ため池にして5度温度をあげることをようやく了承をえて実行に移した。これが幸いして米の増収が飛躍的に伸びた。その後村のこともデーターと数字が基本で企業会計もふくめ、事業を推進した。
奇跡を起こした村のはなし:吉岡忍著:東京 筑摩書房より

2009年3月13日金曜日

自助努力の村①


おはようございます。昨日は公民館の利用者懇談会で参加者50以上もあり、陶芸、ステンドグラス、民謡、シャンソン、絵画、百人一首、子供の遊び、自然の会など広い分野にわたっていました。

新潟県の黒川村については関心はあったものの、一度は行ってみたいところになりました。岩手の藤原町も同様ですが、自助努力の町でした。

新潟県の北部に胎内市がある。この市の中に合併された黒川村があった。
ほとんど知られていないようになったが、昭和20年代でも新潟県には石油が出ていた。そこにこの旧黒川村にあった。
この原油は燃料にするにしても、酷い異臭で煮炊きや暖房にも不向きで、唯一漁船のエンジンの燃料につかわれただけだった。
しかしこの黒川村は豪雪地帯で、冬場は家が雪に埋もれ、電線をまたいで歩くほどの大雪が降ることも珍しくなかった。昔ながらの貧困と豪雪に耐え、ほそぼそとコメを作っている寒村だった。
だから冬は働き盛りの男たちは出稼ぎのために一斉に姿を消した。とにかく何もかもない町だった。

ここの伊藤孝二郎村長は31才から高度経済成長という魔物と戦いながら、金の卵とおだてられている村の若者(次男・三男)の都会への流出を食い止めるためにしたことは1951年(昭和34年)村に「青年の村」を建設する話が出てきたことだった。
しかしこの村は
① 巨額の税金滞納、②積雪寒冷地帯の旧態依然の農業の「科学的改善」
① 近隣随一悪条件の教育からの脱出により人材の養成④村職員の月給の一部寄付願うこと。4条件をどのように解決して行くかであったが、12期48年間の在職(首長の在任最長不倒)によって実現した。
村内の20数名、10代から20代の次三男坊を集めて集落の公会堂で、自炊をしながらの合宿生活で、新しい時代の農業を変えてゆくパイオニアの役を託された。村長がしょっちゅうやってきて、夢みたいなこと、『7桁農業』を」やりたいというんだ。年収百万円という意味である。結局10人が残った。出稼ぎをしないで、ちゃんとくって食っていける農業、牛を100頭を飼う、椎茸作り、などどんどん話は大きくなって、スキー場もやって農業と観光を組み合わせた村にするんだという凄い勢いの話だった。
信じましたか。「信じるも信じないも・・・・それができればすごいと」思いました。小さい耕運機しかないのに、機械化なんて夢のまた夢だったが、信じるしか選ぶ道はなかった。」

伊藤 孝二郎氏(いとう・こうじろう=前新潟県黒川村長)28日午後7時45分、胆のうがんのため新潟県黒川村1622の自宅で死去、79歳。新潟県出身。 1955年10月に初当選。今年6月に辞職するまで連続12回当選し、全国最多選首長となった。93年7月から2年間、全国町村会副会長を務めた。

奇跡を起こした村のはなし:吉岡忍著:東京 筑摩書房より

2009年3月12日木曜日

難民②


おはようございます。毎日知人から俳句が送られてきます。こちらはもっぱら鑑賞する側に回っています。俳句もまだ桜も咲いていないのに、その人の頭の中はもう桜が咲いているのですね。

薄氷の刃より こぼるる冷気かな
ぬくぬくの 風に煽られ 桜咲く


又昨日の続きです。
おとうさんは戦争がはじまると、国を守るためという名目で召集されるが、家庭はガタガタ。戦場に行けば、家族を守れないし、逆に苦しめるのが戦争だから、戦争は金輪際いやだ。
難民キャンプでは子供を懸命に守ろうとして、真っ先に死ぬのが母親でした。
難民キャンプでは配給になった小麦粉で、昔覚えていたドーナツのレシピを思い出して作ったら飛ぶように売れて、家族もその恩恵に浴した。
教育が大事というのが身に沁みたのは,NHKと通訳でルワンダに取材し、協力を仰いだ人への報酬は、その人にとって生まれてはじめての多額の報酬だった。その領収書を書いてくださいとNHKの人がいったら、その人は泣き崩れた。自分の名前の字を書くこともできなかった。私が難民キャンプにいて、日本語を多少しっていたので、紙に書いて助けて下さいとの張り紙をした。これを日本の医師団がみて、通訳として雇ってくれ、その報酬で仲間を含め30名も食べることもできたし、子供が赤痢になって2.3日の命だったんのを医師に相談して薬をいただいて助かった。難民キャンプは夜が来ないように祈ったし、とても怖かった。どこから銃弾が飛んでくるかも分からないのは昼と違う闇につつまれ逃げることも、明日の糧のあてすらない途方にくれる毎日だった。平和は本当に宝ですよ。この会場にこられたのも、平和だからですよね。全世界の子供に渡してあげたいこの平和を。これだけの人が集まれば、すこしでもなにか出来そうに思われてきます。
ルワンダでウムチョイムザという学園を立ち上げた時の子供は夢を語れなかった。其れがわずか1月後には、学校の先生になりたいという夢、それが教育が進むにつれ、ピアノの音をきけば音楽家にもなりたいという。平和を守る主体は個人、個人の力。これを広めるのも個人の一人一人。住宅を買うのに、35年ローンなど組める国はそうざらにはないし、明日の命を心配している国もあるのですから。
身分証明書(ツチ族・フツ族の区別)、顔を見ても分からな野で、生死を分けたのがこのカードで今は廃止されているそうです。
両親が亡くなった姪に、人を恨んではいけないよ。親を殺されたからといって。幼いころは、どうしてそんなことがいえるの。と言われたが、その子が大学を卒業するころには、やっぱり殺戮の連鎖を断ち切らないと、永遠に続くことが分かったという。これも教育の成果と思いますと。

2009年3月11日水曜日

難民


おはようございます。昨日は講演会は「ルワンダの内戦※から学んだこと」という題で、講師はカンベンガ・マリールイズ(NPO法人ルワンダの教育を考える会副理事長:http://www.rwana-npo.org/)
副題は命の尊さ、平和の大切さ。※フツ族とツチ族の争い。
日本にきてからもう15年も経過。当初日本に来たときに、ルワンダ
といってもどこにあるかの知らないといわれ、大変びっくりした。
日本のことは世界で初めて原爆の被害を受けた国と学校で教わった
こともある国だったのに。赤道のちょっと南側にあるが、すずしく過
ごしやすい気候(昼25度と夜は6度の温度)で、首都はキガリ、アフリカ
にあって隣国の東西はコンゴとタンザニアに挟まれている国です。

日本に現地協力者としてきて、洋裁の研修にきて驚いたのは
●水道があり蛇口を」ひねれば飲める水が出てくることだった。
●ルワンダの子供は男の子と女の子が見分けがつかない。アフリカの女性も髪を長くしたい
のだが、水が貴重なので洗髪が出来ないので、学校で切ってしまう。そのとき女性は泣
き崩れる。雨期でも降雨が少なくなっているので、植樹に熱心である。

彼女は学校の先生だったそうです。
●日本の福島県にきたら、日本人は皆字が読めるのには驚いた。来日したときは27歳でした。自分の母は字が読めませんでしたが、10ケ月の滞在で日本語の授業は2ケ月、ホームスティ先のおばあちゃんに厳しい応援もあって(最初ひらがな、カタカナ、次は漢字)は書くよりも話すことがさらに難しいと思ったが、なんとか話すことができるようになった。もう15年にもなるので、事実流ちょうな日本語でした。
日本から帰国した1994年の4月6日に内戦が始まった。現在その内戦の結果として15世帯中1世帯が子供が世帯主である。内戦が始まって2日間は電話が使えたが、日本からの心配した知人からの電話によって戦争状態に入ったことが分かった。
家を出るなと言われ、固く信じていたが、2軒先で爆弾が破裂し何時死ぬかもわからない状態になったので、難民キャンプに避難した。ここからすぐ戻れるとおもったがとても無理だと分かった。
再度日本にきてからの4番目の子供さくらが生まれ、母子手帳を頂いて、予防接種も受けられるなんて。
6才なったら学校に入学してくださいと言われる。その娘が学校で日本は地震や火事に備えて避難訓練があり、先生から言われたことは、親に何が大事か聞いてしてくださいと聞かれたとの質問だった。
「それはね。あなたサクラよ。」それでも納得した顔でなかった。難民キャンプにいたころは、どこから飛んでくるか分からない砲弾とどこに逃げたらの分からない夜は来恐怖の時だった。子供からお腹がすいたよ。何か食べたい」いわれこの言葉は胸を刺されたようなことばだった。どこを探しても売る店もない。日本なら3日分の水と食料というところですね。ところが難民キャンプの経験からいうと、食糧より命です。生きていなければ食べ物はいらないから。皆さんへのお願いは、個人個人が平和の主体者となり、これを世界に広げましょうと。

2009年3月10日火曜日

縄文遺跡


おはようござます。春の花は梅以外はほとんど黄色です。ミモザも福寿草、蝋梅、菜の花も、黄色はまだ少ない虫を呼ぶには強い色なのでしょうか?

3/7は西東京市と練馬区にまたがっている下野谷遺跡(西東京側)、の富士見池遺跡群(練馬区側)のうち西東京市側の部分で第20次調査の途中経過の説明会が行われた。ここでは環状集落というドーナツ型の縄文時代の中期、4000年から5000年前の遺跡の説明会であった。現地の雑木林の部分で地主の好意で発掘時間の猶予を提供された故だそうです。ここの環状集落は2つあって双環状集落があるのは関東地方でも極めて珍しいケースだそうです。この東伏見の台地は石神井川沿いに形成されている。これまでに500軒近い家のあとが見つかっています。隣の小平市の鈴木小学校の鈴木遺跡付近から発生し、ゴルフ場・小金井カントリークラブ横を通過している石神井川流域に数多く見つかっている遺跡の中心となるようなムラが、約1000年にわたってあったことがわかるそうです。500軒といっても1000年の間であるので、同一時代ではわずか6軒程度の立て直しの累計が500軒というわけなのだそうですが、これでも大規模なものだそうです。1000年も続いたというのもわれわれの生きている時代を想定しても凄いことには間違いありません。
   下野谷遺跡では弓矢も縄文時代の発明品、食べ物はどんぐり、これは土器の発明によって「アク」を抜くことができるようになったことで、食糧確保が安定されて、定住できる端緒にもなったそうです。矢の先には長野県、や伊豆の島などでとれる黒曜石なども使われています。犬も飼い始めていたそうです。土器も信州地方のものに似た模様の土器がみつかっていて、人々の交流がうかがえるそうです。

2009年3月9日月曜日

渥美清さんのこと


おはようございます。
①つ目の話:
山田監督が渥美清さんから聞いた話だそうです。小学生の時、友達の両親が二人とも目がみえなくて、皆にいじめられていた。あいつの家じゃどうやって飯を食っているのか、
見てやれと、ある日、悪童どもが夕方の時間にそっと覗きにいった。すると少年を挟んで両親が食事をし、真ん中にがんもどきみたなおかずがあった。少年は一生懸命飯をくいながら、
時々両親の茶碗におかずをポンとのせてやる。なくなるとまたのせてやる。皆それをじっと見ていて、黙って帰って、それから誰もいじめなくなったそうです。


②つ目の話;
いつでしたか、ぼくちょっと面白い話をどこかで聞いて、この話渥美清さんに今度会ったら伝えようと思っていたことがあるんです。やがて彼に会う日が来たんで、渥美さんに「渥美さん、あのね・・・・」といったら、
彼もう笑いだすんですね。「まだ話していないのに、なぜ笑うの?」と言ったら、「山田さんはなにか、おかしい話をするんでしょう」って(笑い)。ぼくもなんだかおかしくなってゲラゲラ笑って、居合わせた連中みんな笑って、
結局なんの話もしないで終わっちゃった。
やはり、みんなで笑うから楽しい、おおぜいでワーッと笑うのが一番楽しいですね。ぼく、“寅さん”を新宿の映画館へ観にいったら、そのときばかに混んでいて、若い二人連れが僕のそばに立っていて、
片方が疲れて壁に寄りかかっているんですね。引っ込んだ壁に寄りかかっているものだから、スクリーンが見えなんですよ、連れが「おまえ、そこじゃ何も見えないじゃないか」と言ったら、
「いいよ、おまえの面を見ているから、お前が笑ったらおれも笑うから」という(笑い)。それを聞いて、胸が熱くなりましたね。おかしいということはそういうことなんだろうな。
スクリーンの渥美清がおかしいというよりも、彼が何か見て笑っている。そうすると自分もそれを見たような気がして、楽しくなってくる。

2009年3月8日日曜日

笠智衆さんは半分仏様



城山:だからその逆のタイプの笠智衆さんみたいな、とにかく台本を覚え込むのに、一生懸命という、不器用な人のほうがむしろいいんですね。
山田:笠さんは本当に謙虚な人でしたね。亡くなるまでずっと、ご自分のいたらない役者だと思っていたんじゃないでしょうか。
城山:それは凄いものですね。
山田:80近くになられたころでしょうか、ロケーション先のいつもの食事をするお店で、上等な牛肉のステーキを作ってくださったことがあるんです。笠さんはそれを食べながら、「ああ何年ぶりでしょうか、こんなおいしいお肉をいただくのは」と言われる。ぼくは健康上の理由かと思って「お医者さんい禁じられているんですか」と聞いたら、笠さんあわてて「いえいえ、私のようなつまらない役者はこんな上等なものはいただいちゃいけないんです」とおっしゃるんですよ。
城山:ほう!
対話:山田洋次:1「人生はつらいか」より

2009年3月7日土曜日

映画人の苦労


おはようございます。昨日の米国映画は実際にあった話だそうで、仕入れた在庫を売りあぐねていた。奥さんに愛想を尽かされ離婚となった。ついにはホームレスにまでなって、公衆トイレで寝る子供を抱きながら涙し、4ケ月無給の研修をうける間は、在庫品をなんとか処分しつつ、ついにはセールスも証券会社になんとか就職できて高額の年収を得るようになったアメリカらしいドリームの物語の映画だった。これも面白かったが、この山田洋次監督と城山三郎氏との対談も面白かった。

【対話:山田洋次:1.人生はつらいか】より

山田:ボクたちの常識では、俳優がどこに座るか、どういう風に動くか、キャメラをどこに置くかそういうこ   とを監督が指示するんですが、溝口健二監督はそれもしないんですね。
   仕方がないので俳優が助監督と「どうするんだ?」「こうしてみるか」などと相談して、とにかくやっ   てみる。聞いたところによれば、溝口さんに「どうです?」って聞くと「ダメです」。「ダメです」だ   けは言うんですって、はっきり(笑い)。
   一日も二日もかかって「ダメです」の繰り返しだから、しまいにみんな腹がたって、「あのクソ親     父!」という感じになる(笑い)。ある助監督さんは「あれは溝口さんの映画じゃない、オレたちがつ   くった映画ですよ」なんていっていました。ところが、ぼくたちが溝口さんの映画をみると、もうファ   ーストカットから溝口健二の作品なんです。

城山:監督本人も言ったほうが簡単なんじゃないんですかね。

山田:いえぼくは溝口さんご本人にもどうすればいいのかわからなかったんだと思います。俳優も懸命に工夫   するうちに「あ、それいいな」と思う。そういうことだと思います。あるいは俳優の衣装一つについて   も、「それじゃあらたまりすぎるんだけど、もっとラクな服装はないかい」とい言い方しかしない。
   「監督なんでもおっしゃってください。あなたのいう通りにします。」といわれるのが一番困るんです   ね。「君自身にアイディアとかやり方があるだろう。それをぼくは期待するから君と一緒に仕事するん   だ」ということが時々ありますけれど。

城山:そうやってスタッフといい循環が生まれ、自分たちで勉強して、自分たちで知恵を出し合う、みんなで   育っていくわけですから。ただし一つ怒るのは自信過剰のやつ。

山田:伊丹万作さんの本に書いてあったことなんです。俳優をしかる理由は何もない。みんな一生懸命やって   いるのだから、どんなひどい芝居をしてもまず認めてやれ。ただひとつだけ叱らなければならないケー   スもある。それは自分がうまいと思っている俳優だ。つまり芸術の高みからみればどんな仕事だってパ   ーフェクトでありうるわけがないのだから。自分はうまいと思っている俳優は叱って、その自信がどれ   ほどでもないということを気付かせるべきだ、ということですね。

2009年3月6日金曜日

クジラの座礁はなぜ?


おはようございます。玄関先に置いてある太陽光パネルの灯りも光の明るさが一段と強くなってきています。

◆「クジラは絶滅に瀕している」この「神話」は今も生きているようだが、はたしてそうであろうか?かつての乱獲で激減したクジラはいる。
◆だがその後の国際的な保護策の進行で徐徐に生息数は回復した。
◆しかしこれと逆に宗教的ともいえる過剰保護の結果、増えすぎを心配させる種類も現れ始めた。
アメリカで1969年に制定された「絶滅に瀕した種の保存法」によって、その法に基づき多くの種類のクジラが保護すべき動物に指定された。ところが94年、政府は北東太平洋のコクジラは絶滅の恐れがなくなったとして、法律の対象外となった。そのコクジラが99年の夏から秋にかけ、アメリカ西海岸で大量に“座礁”したのである。実はコクジラが増えすぎて生息環境の限度を超えたため、“過剰な”クジラが死んで海岸に打ち上げられたのだ。アラスカからカルフォルニア州にかけた広い範囲で座礁が発生し、確認されただけでも約350頭が死んだ。いったい死因は何かー調べてみると、脂肪が極めて薄く胃の中がからっぽだった。つまり餓死したのである。コクジラは夏にアラスカ沖で餌をたべ、カルフォルニア沖を南下してメキシコまで行き、バハ・カルフォルニアで子供を産んでまたアラスカへ戻る、という回遊を1年間に繰り返している。ところがアラスカでの餌の量が不足し、なかなか満腹にならないので、アラスカを離れるタイミングが遅くなった。エサ不足は深刻で結局は大量の餓死という事態を招いたとみられる。過剰な保護によってあまりにも数が増えすぎてため、生存のための環境の収容能力を超えてしまった悲劇的な例でしょう。これに対し,反捕鯨団体は海の汚染のために死んだなどと主張している。だが汚染が原因ならコクジラだけが大量に死ぬのか。コクジラだけに死をもたらす汚染物質が襲いかかった、」とでもいうのだろうか。幸い、他の海洋生物にはこのような現象は起きていないのだ。その説明がないまま、原因を海の汚染に求めようとするのは明らかに無理がある。行き過ぎた保護は、海洋生態系のバランスを崩して、対象となる生物の“自然淘汰”を呼び起こし、かえって悲劇をもたらすこともある。これでは「動物保護」にはならないだろう。
実は日本の沿岸に毎年クジラが多数打ち上げられ、しかも年々その数は増えていて1999年には全国で186頭の座礁が報告されている。
                    
100年前現在との回復の比較
セミクジラ(体長15m以上、57.5t)    13%
シロナガス(体長25m以上、90.9t)    1%      
ナガスクジラ(体長20以上、48.5t)     (40万頭→1万8000頭)
ニタリクジラ(体長15m、14.3t)     99%
ミンククジラ(10m、6.6t)        1000%
http://image.rakuten.co.jp/hakudai/cabinet/img02923697.jpg


●ミンククジラは繁殖率が旺盛で、小型ですばしこく、エサを捕る能力にたけ、シロナガスのエサを横取りし、回復を妨げているとう説が有力だそうです。
1999年に世界食糧農業機関(FAO)の水産委員会に提出された一編の科学論文は日本鯨類研究所の田村力博士と同研究所の大隅清治理事長からだされ、両氏の試算によると、
クジラは年間2億8000万トンから5億トンもの海洋生物を食べている。これにたいして人間は約8000万トンだ。人間の3.5倍から6倍ものを食べている計算になる。
この論文にたいして、米国の海洋大気海洋漁業局は「クジラとの競合はない」と打ち消しに懸命だが、世界の認識はクジラがどの位世界中の魚類を捕食しているかを調べようと満場一致で決議した。日本近海でクジラの捕獲を完全に禁止したらなんと「魚が消えた」というシュミレーショがでているそうです。

「なぜクジラは座礁するのか?」森下丈二著:河出書房新社より

2009年3月5日木曜日

幕末の状況


昨日は弓道でしたが、どんよりした空で、外気にさらされ、厚いシャツとセーターだけでは肌寒く、芯まで冷えて弓自体も固く骨折りました。電気ストーブにすぐ戻るあり様でした。

古郷や餅につき込む春の雪     寺井 谷子

福翁自伝を読むとあのころの日本人は競争を好まないで、幕府公認とか、過激な競争はなかったのでしょうか。奉行所の役人も少なく、自治がうまく作用していたのかもしれません。それが外国勢がきて難局をよく乗り切ったものだと思います。しかし幕府の中枢の具合はかきの如しでした。

大蔵省の重要な職についている人に、チェンバーの経済論のことを語ると、どうか目録だけでもいいから是非見たいと所望された。さっそくコンペチション(competition)という原語に出会い、いろいろ考えた末に競争という訳になった。その人はこれを見てしきりに感心していたようだが、「イヤここに争いという字がある。どうもこれは穏やかでない、どんなことであるか」「日本の商人もしているとおり、隣で物を安くしよう、互いに競い合って、ソレでもちゃんと物価も定まれば、金利もきまる。これを名付けて競争というのでござる」「なるほどそうか、西洋の流儀はキツイものだね」「何もキツイことはない、ソレですべて商売世界の大本がきまるのである」「なるほど、そういえばわからないことはないが、何分ドウモ争いという文字が穏やかならぬ。これはドウモ老中方へご覧にいれることが出来ない」と妙なことになったそうです。

2009年3月4日水曜日

国が違えば


国が違うと考え方が違うものだなと思います。当たり前なことが当たり前でないことも多々あるようです。


法政大学教授 王敏さんはいいます。

私は民話「鶴の恩返し」を中国語に翻訳して出版しました。その時
訳しながら不思議に思ったことがあった。鶴が自分の羽を一本ずつ抜きながら織っているところを夫にのぞき見されて、約束を守らなかったことを怒ってよいはずですが、夫のもとから静かに去ってとんで行きました。普通だと、この普通というのは中国的な生活文化環境を申し上げています。中国では黙って去っていくことはないんですね。まず議論して大喧嘩して(笑い)、それから去っていくのが普通だと思います。このあたりを西洋人にも聞きました。そして韓国人、いろんな国の人に、聴きました。みんな黙って去っていくことはあり得ないというわけなんですね。日本では、これは昔の話だけではなくて、例えば現実の生活のなかにもあることなんですね。違う意見にたいして、余り論争しないでだまっている。これは日本的な、もしかしたら独特な表現形式かもしれません。
伝統文化:平成20年・陽春:NO27パネルディスカッション:法政大学教授 王敏(中国・河北省承徳市出身。専攻は比較文化論・宮沢賢治を切り口の日本研究)

2009年3月3日火曜日

補聴器


おはようございます。昨日は急に五反田の駅前マンションに代替勤務に何も引き継ぎなしで呼ばれた。地下で店舗の空調工事があって、火事のときの強制排気ダクトの部分を開けたらしく
非常ベルがなって、やっとその原因が分かったが、ベルを止めるのに、電話連絡で操作するので教える側、教えられる側も意志疎通が難しく思いのほか手間取った。しかし今後も
ベルがなった場合の処置方法の基礎は学べた。

補聴器の限界をどうするか?
まず高齢になってからの使用だと、使いこなしていらっしゃる方はほとんどいないのではないだろう
―――何かいらない音もどんどん拾ってしまう。というようなことをよく聞きますね。
お年寄りの難聴の特徴なんですが、硬い音とかひろわず、高い音がとても聞きづらくなっているらしいのです。ちょうどそれが全部あるのが、あの補聴器
だといっても過言ではないとおもいますね。
「もしもしフォン」これが物理的で筒状なもので、プラスチックで軽くて、伸び縮みしますから、筒をのばして60cmくらい距離をかえられます。いちおうラッパのようなもので、ひとつはちょっと大きく、一つはちょと小さくなっています。小さいほうからものを言い、大きい方を相手の耳にあてます。(通常これっを使わない場合、実際は声が大きくなると、高くなちゃうのですね。高い帯域の音はどんどん聞こえなくなっていますから、こっとが大きな声をだせばだすほど、老人には聞こえないという悪循環になっているみたいです。)話しかけるほうが、疲れちゃいますから、ついついしゃべらなくなるので、マイクで拾う補聴器よりも具合がよいとのこと。
http://www.kenjoy.jp/care/4902508255707.html


看護と介護の違い
その人の良いところをどこまで見つけ出せる能力がこちらにあるかということだと思いますね。それを難しい言葉では「残存機能」なんていいますが、そんな
難しいことではなくて、やる気からすべて含めて、使えるもの、まだ残っている能力、それをどう引き出すか、どこまで見つけ出せるかということだと思います。

「老人生活リハビリ」対話編:新しい老人ケア:三好春樹:雲母書房

2009年3月2日月曜日

春近し


おはようございます。もうこの時刻でも随分あかるくなりました。昨日も弓の稽古でしたが、82歳の男性が、奥さんの脳梗塞の介護の合間に、息子さんに面倒みてもらって
やっと週に1回来られるようになったのですが、一時大分やせられたのが、また太ってきました。慣れてきたのですね。
その人がシミジミこの1週間の長雨と、曇りのながかったこと、やはり洗濯物が気持ちよく干せる有難さいことを感じてのことでした。
散歩していると、アカシア(ミモザと同じ花であることも分かったのですが)が溢れるばかりに咲いています。そうしたら昨日の俳句マガジンは下記の句でした。

 野に出れば人みなやさし桃の花    高野 素十

また従妹の連れ合いの大学の職員寮の期限が近付いているので、昨年かってすぐに賃貸にだした調布の多摩川は遠いということで、今の住まい・目白に近い中古の家を見つけて、これからアメリカへの出張であるが、
見てくれというようなことで、外観だけは見てきました。池袋と西武池袋線の一つ目の駅「椎名町」の間、立教大学ながちかくにあり、環境はまずまずで、社宅の多い街並みでした。今先に申し込みの人がいて、2番手ですがさてどうなるものでしょうか。でも土地25坪、建物は築22年ですがパナホーム98㎡、車もおける
価格は4400万円で、これもまずまず、不動産価格も随分安くなっています。
帰り路、中古屋さんが駐車場が満杯でしたし、同様にBOOKFFもそうでした。生活防衛に懸命なのですね。

2009年3月1日日曜日

ケアマネージャーの答え


おはようございます。介護保険は予算の縛りはあるが、何事も契約であり、交渉ごとのなので、ケアマネージャーと綿密な打ち合わせが必要のようです。これがかなり面倒といえば面倒で、付添がいると心強いですね。
Q1:横浜でペースメーカーをつけている。動ける状態なら介護保険はつかえないが、自立支援法は利用できる。
Q2:介護保険証の再発行:自分を証明できるような健康保険証やパスポートとは違う。申請すればすぐ再発行してくれます。
Q3:介護保険を使う前に知っておきたい:とにかく包括支援センターにいって相談しておくとか、健康体操とか、老人会に出席したり、地元と密接にかかわっていると、周りが包括に連絡してくれて(お互いに相互連絡グループを形成すればどうか)
Q4:ケアマネージャーのチェック:要支援は3月に1回、要介護は毎月、面談して状態を確認する義務があり、ケア先は35人(要支援と要介護のカウント方法?)でケアしていないとペナルティがどんどん課される。
居宅介護では1月のフォローが怠っていると、3割カット、2月の怠りでは5割カットされるこれも介護を受けている側からもマメに電話相談なり、お礼なり、報告をしておくと。ケアマネの記録材料の助けになる。

Q5:独居老人は通常あまりもので、火無では冷たい弁当。そこで配食は400円をすすめる。
   配食は見守りサービスも兼ねているので安いし、安心。
Q6:自立している93歳では掃除機は重いのでどうにか介護保険が使えないかの相談をしたときに、軽い紙ゾウキンのものをすすめられたが他に方法はないか。→私は使えるようにプランを立てました。こういうふうにケアマネの力量が試されるようだ。
Q7:いろんな補助も市役所にいって相談すると、20万円の工事も新築した家は又別に利用できるとかがあったり、オーバーした部分も面倒をみてくれることもあるのでコマ目に相談すること。
Q8:とても面倒みのよいケアマネが、母がなくなってから来ていない:介護のメニューにははいっていない。相模さんは、一度線香位は上げに行く。
Q9:ケアマネの変更:相互に相性があるのは確か。ケアマネが断られた理由でこんなことがあった。太っている。見栄えしない。年寄りだから。又老人保健施設に入所するとケアマネは変わる。
Q10:ディサービスの苦情:行っても何もすることがない。耳が聞こえないので楽しくない人もいます。

Q11:介護保険の10%でも所得の少ない人は払える範囲(遺族年金ではらったり)
で我慢。家を処分して費用に充てる人もいる。
Q12:介護保険ではらった費用も、小額ではあるが医療費控除は他の医療費もわせて10万円を超えたら対象になる。