2009年3月13日金曜日

自助努力の村①


おはようございます。昨日は公民館の利用者懇談会で参加者50以上もあり、陶芸、ステンドグラス、民謡、シャンソン、絵画、百人一首、子供の遊び、自然の会など広い分野にわたっていました。

新潟県の黒川村については関心はあったものの、一度は行ってみたいところになりました。岩手の藤原町も同様ですが、自助努力の町でした。

新潟県の北部に胎内市がある。この市の中に合併された黒川村があった。
ほとんど知られていないようになったが、昭和20年代でも新潟県には石油が出ていた。そこにこの旧黒川村にあった。
この原油は燃料にするにしても、酷い異臭で煮炊きや暖房にも不向きで、唯一漁船のエンジンの燃料につかわれただけだった。
しかしこの黒川村は豪雪地帯で、冬場は家が雪に埋もれ、電線をまたいで歩くほどの大雪が降ることも珍しくなかった。昔ながらの貧困と豪雪に耐え、ほそぼそとコメを作っている寒村だった。
だから冬は働き盛りの男たちは出稼ぎのために一斉に姿を消した。とにかく何もかもない町だった。

ここの伊藤孝二郎村長は31才から高度経済成長という魔物と戦いながら、金の卵とおだてられている村の若者(次男・三男)の都会への流出を食い止めるためにしたことは1951年(昭和34年)村に「青年の村」を建設する話が出てきたことだった。
しかしこの村は
① 巨額の税金滞納、②積雪寒冷地帯の旧態依然の農業の「科学的改善」
① 近隣随一悪条件の教育からの脱出により人材の養成④村職員の月給の一部寄付願うこと。4条件をどのように解決して行くかであったが、12期48年間の在職(首長の在任最長不倒)によって実現した。
村内の20数名、10代から20代の次三男坊を集めて集落の公会堂で、自炊をしながらの合宿生活で、新しい時代の農業を変えてゆくパイオニアの役を託された。村長がしょっちゅうやってきて、夢みたいなこと、『7桁農業』を」やりたいというんだ。年収百万円という意味である。結局10人が残った。出稼ぎをしないで、ちゃんとくって食っていける農業、牛を100頭を飼う、椎茸作り、などどんどん話は大きくなって、スキー場もやって農業と観光を組み合わせた村にするんだという凄い勢いの話だった。
信じましたか。「信じるも信じないも・・・・それができればすごいと」思いました。小さい耕運機しかないのに、機械化なんて夢のまた夢だったが、信じるしか選ぶ道はなかった。」

伊藤 孝二郎氏(いとう・こうじろう=前新潟県黒川村長)28日午後7時45分、胆のうがんのため新潟県黒川村1622の自宅で死去、79歳。新潟県出身。 1955年10月に初当選。今年6月に辞職するまで連続12回当選し、全国最多選首長となった。93年7月から2年間、全国町村会副会長を務めた。

奇跡を起こした村のはなし:吉岡忍著:東京 筑摩書房より

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