2009年3月11日水曜日
難民
おはようございます。昨日は講演会は「ルワンダの内戦※から学んだこと」という題で、講師はカンベンガ・マリールイズ(NPO法人ルワンダの教育を考える会副理事長:http://www.rwana-npo.org/)
副題は命の尊さ、平和の大切さ。※フツ族とツチ族の争い。
日本にきてからもう15年も経過。当初日本に来たときに、ルワンダ
といってもどこにあるかの知らないといわれ、大変びっくりした。
日本のことは世界で初めて原爆の被害を受けた国と学校で教わった
こともある国だったのに。赤道のちょっと南側にあるが、すずしく過
ごしやすい気候(昼25度と夜は6度の温度)で、首都はキガリ、アフリカ
にあって隣国の東西はコンゴとタンザニアに挟まれている国です。
日本に現地協力者としてきて、洋裁の研修にきて驚いたのは
●水道があり蛇口を」ひねれば飲める水が出てくることだった。
●ルワンダの子供は男の子と女の子が見分けがつかない。アフリカの女性も髪を長くしたい
のだが、水が貴重なので洗髪が出来ないので、学校で切ってしまう。そのとき女性は泣
き崩れる。雨期でも降雨が少なくなっているので、植樹に熱心である。
彼女は学校の先生だったそうです。
●日本の福島県にきたら、日本人は皆字が読めるのには驚いた。来日したときは27歳でした。自分の母は字が読めませんでしたが、10ケ月の滞在で日本語の授業は2ケ月、ホームスティ先のおばあちゃんに厳しい応援もあって(最初ひらがな、カタカナ、次は漢字)は書くよりも話すことがさらに難しいと思ったが、なんとか話すことができるようになった。もう15年にもなるので、事実流ちょうな日本語でした。
日本から帰国した1994年の4月6日に内戦が始まった。現在その内戦の結果として15世帯中1世帯が子供が世帯主である。内戦が始まって2日間は電話が使えたが、日本からの心配した知人からの電話によって戦争状態に入ったことが分かった。
家を出るなと言われ、固く信じていたが、2軒先で爆弾が破裂し何時死ぬかもわからない状態になったので、難民キャンプに避難した。ここからすぐ戻れるとおもったがとても無理だと分かった。
再度日本にきてからの4番目の子供さくらが生まれ、母子手帳を頂いて、予防接種も受けられるなんて。
6才なったら学校に入学してくださいと言われる。その娘が学校で日本は地震や火事に備えて避難訓練があり、先生から言われたことは、親に何が大事か聞いてしてくださいと聞かれたとの質問だった。
「それはね。あなたサクラよ。」それでも納得した顔でなかった。難民キャンプにいたころは、どこから飛んでくるか分からない砲弾とどこに逃げたらの分からない夜は来恐怖の時だった。子供からお腹がすいたよ。何か食べたい」いわれこの言葉は胸を刺されたようなことばだった。どこを探しても売る店もない。日本なら3日分の水と食料というところですね。ところが難民キャンプの経験からいうと、食糧より命です。生きていなければ食べ物はいらないから。皆さんへのお願いは、個人個人が平和の主体者となり、これを世界に広げましょうと。
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