2009年3月14日土曜日

自助努力の村②


おはようございます。昨日は田舎は山形県の日本海側庄内地方の仲間と会い映画「送り人」の撮影現場はどこか、とか放送大学の仲間を藤沢周平について山形までいって案内しなけらばならないという話もありました。

昨日の続きでです。
北海道や茨城県で先進的農業を学ぶ、乳牛の乳しぼりや農業機械の操作を勉強する。それと並行して、胎内川沿いの段丘を崩してたいらにし、10人で共同で働くための田圃と村営住宅を建てる工事が進んだ。農林省の農用地開発機械公団から、運転手ごと借りてきた大型ブルトーザーで造成し、当時の黒川村の戸当たり平均耕作面積1.2haだったのが、いっきに20数戸分任されることになってしまった。
1961年(昭和36年)には10組の合同結婚式がおこなわれ、あっという間に20人の若夫婦の村になった。しかし出稼ぎがなくなった訳でもなく、下流の地区の田圃の収穫量の3分の1だった。いくつもの困難にぶつかった。布川は農業改良普及員にもなったがラジル移民でもしようかなどと考えたこともあった。いくら走りまわっても現実はそう簡単に変わらない。布川が村長にであったとき、村長はドイツに農業研修に行ってみないかと意外なことを言われた。
降ってきたチャンスで、何十倍もの競争率の県と全国の試験をうけて見事合格し派遣されのはわずかに9人だった。
ドイツにいって驚いたのは、同じ敗戦国なのに、アウトバーンにもびっくりした。女性がトラクターを動かしているのにも驚いた。
昭和30年代の10年間だけ行われた派米短農業のほうは、アメリカの農場で2年働いて100万円貯めようというストレートな目標を掲げていた。都会のサラリーマンが毎月3万円程度で暮らしていた時代である。 
布川は帰国後役場職員になって、米収穫量の悪いのは水温を上げなければ、それには一部ため池にして5度温度をあげることをようやく了承をえて実行に移した。これが幸いして米の増収が飛躍的に伸びた。その後村のこともデーターと数字が基本で企業会計もふくめ、事業を推進した。
奇跡を起こした村のはなし:吉岡忍著:東京 筑摩書房より

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