2008年6月30日月曜日

発見の種はいつも漂っている。


発見の種はいつでも漂っている。

東京経済大でノーベル賞を受賞した白川英樹博士の講演がありました。会場は大盛況でした。
時々説明に利用するPCが不調で動かなくなったり、難しいことをどうやさしく説明したものかと躊躇することもあったが、それでも名司会者が博士に継続を促し励ます場面もありました。。
①博士は東京工業大学で研究室に残るときに希望するところに希望者多く、抽選となったところ7名のうちの1名だけの外れになったがこれが先ざき発見の種であった。
②研究中に弟子が失敗した、これは何故失敗したのかが既成概念を壊す元がはいっていた。
③この元を研究し、通念では粉にしかならないというポリエチレンをフィルムにし、ノーベル賞を共に受賞した米国のマクダイアミド博士が評価し、米国にわたり、プラスチックに電気が通ることへの端緒を切り開いた。
講演の要旨は
発見の種はいつでも漂っている。何か別のことをやっている途中、偶然に起こることを簡単には見逃さない。旺盛な好奇心をもて。よく観察・よく調べる・よく記録・既成概念を疑うが必要です。自分の専門外のことにもとらわれない目を育てるためにもよく遊べと。ニュートンも、レントゲンも、フレミイングノ「ペニシリンもワットの「蒸気機関」も、コロンブスの新大陸発見(新航路発見の目的でいつもとは逆回り)だったことも偶然であっても「緊張した目」が見つけた。
 DDTやはりノーベル賞を受賞したものでしたが、現在は危険性があることで使用されていないが、
アフリカで蚊の退治にもつかわれなくなったので、諸病が広がっているとのこと。むしろ害は小あるが
大なる病気を取り除けるには有効ですとのこと。薬も毒にも薬にもなるので科学は人間や自然も考えて使い方も踏まえての教育が要請されるとの講演でした (除虫菊もよいという話も聞きますが)。
数人子供を連れてきた母親の姿も見えました。
白川英樹博士については下記をhttp://www1.e-science.co.jp/shirakawa/index.htm

暗闇は想像力の世界






武蔵野大学公開講演。童話作家廣田衣世さんのお話(武蔵野女子短期大学・文科国文専攻(平成4年卒業)
暗闇は想像力の世界:
PCで調べればほとんどのことがわかる。手軽にPCに入るまえに、不思議の方向に目をやってしばらくしてPCに向かうのでも遅くはない。アホで楽しく暮らすのも悪くはない。
うまれは島根県では安来節で有名な安来市に住んでいる。宍道湖・松江と米子の間に位置する。
神話の世界の出雲や世界遺産になった石見銀山もちかい。銅剣が358本も一か所で発見された荒神谷遺跡もちかいし古代色の濃いところです。そういえばあの小泉八雲は松江に住んでいた。

最初の不思議体験:姉・兄の次は末っ子の次女にうまれ、どうしても弟が欲しかったがかなわず、名前をクマタロウというパンダ人形と寝起きをともにしていた。ある5歳になった朝、枕もとにクマタロウがいない、パニックになっていたが家族の誰に聞いても分からない。近所の下山神社にお参りして見つけてくださいと必死に祈った。翌日いつも通る道と反対側の道はスグ線路で柵もなく危ないからけしてとおってはいけないよといわれていたが、何故か引き寄せられてその道を通って神社の前にくると、思いもかけず、神社の狛犬の頭の上にクマタロウがのっていた。
2つめの不思議は中1の時はコワイ話のブームであった。毎日コワイ話をしていたが、とうとう種がつきて、自分が作った話をそれといわずに披露した。神社の石段にユウレイがいた。それはおばあさんで、防災ずきん・モンペ・手にはヤカンをもっていたのが消えてしまった。翌日幼馴染のレイコちゃんとサナエちゃんも神社の石段でそれを見た。これをレイコちゃんが書いた作文が全校の作文で最優秀にえらばれて、ますます嘘だったという機会を失った。
それから何年かしてPHPという本で募集の怖い話の裏話に応募したところ、マサカの最優秀に選ばれた。こうなると、幼馴染みのレイコちゃんにも釈明の電話をしたところ、こちらから何も言わない内に、レイコちゃんが電話をとって開口一番、「昨日サナエちゃんとお茶を飲んだ。ところがあの幽霊の話が二人の話にでて盛り上がったの」という。
「実はね、あれは私が作った話なの」「そうなの、私も謝るわ。幽霊が階段で消えた筈なのに、私は階段を越え、御堂の中に消えたという作文にしたの。ごめんね。」と互いに詫びた。
 子供は理屈をつけて記憶に残す;
 ●鼻水はどこから→脳が解けたもの。→そう思った坊やは必死にすすった。
●電車やバスのアナウンスの声の人はどこに隠れているの→あの薄い天井に隠れるには「ノシイカ」みたいに薄くなるのは大変だろうな。
●父やおじいちゃんの喉ぼとけ:梅干しの種がひっかっかたものだろう。そう思ったので大人になるのには梅干し嫌いの坊やが努力して沢山食べた。
こんな話を集めてメモをしてネタに生かす。
不思議は表現できないが、感じるだけ。こんな話が沢山でてくるし、このような話と昔話を融合し不思議な世界にトテモ敏感で新しい話を書いている。
福島正美記念SF童話大賞審査委員、小川未明文学賞優秀賞受賞、毎日新聞「よんであげて」に連載。ラジオ毎日放送「童話の散歩道」
東京で内定の仕事があったのに、コマーシャルでのどかな田園風景をみてヤッパリ田舎がよいと得心した。一日2時間はボーッツとしないと死んでしまう。ところがいなかに戻っての仕事が9:00から25:00までのかなりハードな仕事でした。夜道の帰宅であの世に逃げたいというところまで追いつめられた。
Y字路の中央部分で突っ込みそうになったのをある人の警笛でフトわれに帰り、これは危ないと思い直して、その仕事を辞めた。
毎日涼しい図書館通いが始まり、受験生のよこで本を読んでいた。2人の恋人同士のアツイ会話が耳に入ってきた。このイチャイチャ振りに触発されて「縁結び」につての童話を書きだした。その年島根県に震度6強の地震があっったが、本棚から落ちなかったのは「縁結び」の原稿だった。
そうこうしている内、この応募は1・2次審査なしに本審査の発表だった。ところが審査結果も届いていないのに、楽天的な広田さんはなぜか分らないが、洋服屋によって「表彰式があるのでスーツをください」「どなたのですか」「私のです」と買ってしまった。家に帰ったら、幸いにも「おめでとう」の電話が入って胸をなでおろした。このように素直に不思議だとおもうことが大事なあと思うそうです。暗闇の世界はポットン厠、これが恐怖心をもたらすが、そこには想像の世界が待っている。
出雲の国は白か黒の2者択一の世界の一神教ではない。貧乏神もあれば福の神もある(お守り同士も喧嘩する。)
水の神でもあるし、妖怪でもある2面をもった河童の話を集めるのに、岩手の遠野物語の小川で一日中「河童よ出て来い」念じていた。童話の構想を膨らますのに、場所を選ぶのですね。最初から否定したら、不思議の世界の扉はあかない、同じ人生ならもしかしたらと考えることが無限の世界に遊べるのですと結んだ。

2008年6月28日土曜日

川田龍平参議院議員は訴える




厚生行政を根本から変えたいと川田龍平参議院議員は鋭意訴える。
薬害エイズにとどまらず、C型肝炎、インフルエンザ治療薬のタミフルなどの薬害による被害の問題が繰り返されている国の厚生行政の仕組みがなにも変わっていない。医療費のカットにより、治療がうけられなくなっている。立候補したのは公的制度でしっかり安心した暮らしができる社会にしたいというのが動機である。すごく励まされたのは、薬害エイズのときも実名を公表した時もそうでしたが、家にひきこもっていた人が「街頭演説を聞きたくて出てきた」という人がいたり、「演説を聞いてすごく元気になった」と手紙をくれました。人に励ましを与えたり、希望につなげたりすることができたということは喜びでした。1995年実名を公表したときに、富塚学長が東経大の全学に紹介してくれたそうですし、大学が受け入れのための勉強会も開いてくれた。1996年には裁判の和解が成立したことから、教職の勉強に入ろうと思っていたが、全国から講演の依頼がおさまらず、そのご98年には休学し2000年までドイツのケルンで勉強した。同じ敗戦国なのに、なぜ豊かさに違いがあるか、実際に暮らして確かめようと思った。ドイツでは戦争責任、薬害エイズは国の責任、官僚の責任など国の責任についてはなるほどという納得がいった。日本のよいところは憲法9条に代表される考え方は世界に誇れる考え方だと思いました。ドイツからもどっきて東京21区の衆議院に当選した母の議員秘書もやっていたのですが、次の選挙で母が落選した時には、運よく松本大学で講師をやる道がひらけた。都会である東京やケルンにくらべ、長野の松本では、終電を気にせずワイワイ先生や学生と地域に溶け込む大学作りなどについて語り合えたのも貴重だった。31歳の若さでの当選とは東京選挙区で、無所属で参議院議員に当選したのは市川房江さん以来42年ぶりだった。参議院では無所属でも質問の機会が数多く回ってくるところが衆議院と違うところ。第一希望としての厚生労働委員会(年金、福祉、薬害、労働問題)は倍率がたかく、同様に大変な問題である環境委員会に入った。
東京経済大の同窓会誌NO320:20年1月号

2008年6月27日金曜日

講談を生で聞く 、「命をかけて守る」


講談を生で聞く ;おはようございます。半夏生が恥ずかしそうに自分の葉をしろく化粧しています。講談:徳川家康が人質で相当の苦労を経験したころ:池の鯉を取るもの厳罰に処すと立札をたてた。ところが人はやっていけないことをやってみたくなる。そんな気持ちがあって、2名の足軽(立派な名前を失念)がこっそり鯉を捕獲して食べてしまった。やはり悪事は露見して牢獄にいれられ何日かの後には打ち首ということになった。鈴木久衛門という世に聞こえた豪傑の家来が家康にいた。家康は中庭に信長から拝領した30cmもの鯉2匹を飼っていた。これを大事にして、それに鯉を呼ぶに手を打っては餌をやることを楽しみにしていた。その庭に鈴木がやってきて、庭仕事をしている男に「殿と将棋3番をやって全部勝つことができた。褒美にこの鯉を捕らす」のありがたい言葉をいただいた。「そこであの鯉を頂戴してゆく」といった。その庭番は鈴木に何か証拠をお示しくださいと再三再四たのんだ。「武士に嘘偽りはない」という豪傑の鈴木に圧倒されて渡してしまった。鈴木はそれを膳所にもっていって、まな板にのせ料理番の本多に鯉の包丁裁きを依頼し、いままでの経過を話した。膳所で働いている連中もあつめ、酒樽もあけて大変賑やかな酒盛りになった。そうした状況になっていた時に、家康が中庭の池に降りて何度も手を叩いて鯉を呼んだが答えず。小姓を通じて庭番に聞いて事情が分かった。なにやら騒々しい膳所の声を聞きつけた家康は小姓に調べさせた。帰って来て報告を聞いた家康は鈴木を呼びつけた。「そのほう、何か訳でもあるのか。」顔は怒りで朱色であった。鈴木はなにも釈明しない。そのほう蟄居せよと鈴木を帰した。家康もじっくり考えた挙句思い当たるフシを思い起こしたのはさきの足軽のことへの諫言かじっくり考えた。再度鈴木を呼び出した。鈴木曰く「お殿様は大馬鹿でござる」。家康はあの足軽の処罰の件かと尋ねる。「人間と鯉と天秤にかけてどちらが重い命でしょうか。決死で戦をしている家来の大事な命、それもわからないお殿様は大馬鹿です。・・・・・・それがおわかりいただけるものならば、足軽を許してください。しかし手前の罪は重うございます。切腹してお詫び申し上げます。」  そこで家康もその命かけの諫言が胸に響いて足軽は無罪放免、鈴木には千石の加増の沙汰をした。後年の戦で家康がかなりな数の敵に囲まれ、逃げ道がなくなったときに、あの足軽二名がどこからか駆け寄せて、自分らが犠牲になったお陰で活路を見出し、九死に一生をえた。家来が諫言し、その意を冷静にうけとめた家康の器量が足軽の行動を呼び起した。講談は映像や効果音のない世界で語り手の迫力が訴える。そこに命掛けの覚悟をも感じさせる桃川鶴女の講談でした。

2008年6月25日水曜日

歯科の現実




<ニュースの背景>
同じ事柄でも、患者、歯科医、技工士のそれぞれの立ち場で主張がことなる。
技工士は入れ歯、カブセを制作する人ですが、歯科医が海外にこの加工を委託することが行われていることが問題になっている。
●厚労省は患者の同意を得ること、患者が自費治療の場合なら海外委託でもよい。しかし現実にはこの同意の前の説明、もない。
●歯科医は10年前に比べると、20%の所得ダウンだそうです。そういう背景にあるので違法治療が横行しているそうです。こういう治療は材料に鉛が入っているなどの問題がある場合もあるのに、厚労省はこの点をあえても見逃しているような傾向がうかがえる。
歯科医も所得ダウンがあるから技工士への加工委託料の大幅ダウンを要求している。技工士も受けた仕事を海外に委託しているケースも増えているし、廃業する人も増えているそうです。技工士の学校に入学する人も減っている。
海外からの入れ歯の輸入は雑品扱いで安全衛生面でのチェックが」ないので相当な問題である。外国に委託するなどは餃子問題で承知のごとくである。
技工士は日本では資格試験の合格した者を要求しておきながら、海外委託をたとえ患者の同意を得ることを条件に見逃している点はどう理解したものかと考えざるを得ないという(まず医療費削減が第一義なのでしょうか。歯科に限らずですが)
高額なインプラント(上顎の歯は取り付け時に脳にも影響あり、受講者から西欧や米国で安くない場合はキチンと良心的に治療しているのではないかという疑問が投げかけられたが、米国でもこの治療が報道されていないが問題になっている由)やホワイトニングにしても歯を削るので相当にいためている。このように患者の苦情が増えているのは歯科医への治療費締め付けが原因のようである。






東京経済大のマスコミ講座:専門紙の場合より:見事な講義でした。

2008年6月24日火曜日

米国の深慮遠謀



1898年の米西戦争の結果、アメリカはスペインかに2千万ドル支払、フィリピンの支配権を獲得する。そして20世紀初頭、日本が対ロシアとの戦争に勝利するや、対日恐怖症が米国をうごかし、密かにオレンジ作戦と呼ばれる、来るべき対日戦争のシナリオ書きが始まる。そのシナリオにおいて、日本と戦争する上で、フィリピンが太平洋にあって、いかに軍事的に重要な拠点であるかが早くも認識されている。余談だが、この作戦以前から海軍の戦略家アルフレッド・マハンの著作に「日本は必ずフィリピンに侵攻するであろう」という予言がしばしば現われている。これは地政学上から見たフィリピンの重要性から導き出されたものであった。マハンの考え方は20世紀アメリカの戦略家の常識となっていた。アーサー・マッカーサーらが20世紀初頭、フィリピンに軍事顧問として赴任するのはそうしたアメリカの考え方からであった。その予言が的中するのは、それから40年近い歳月を必要としたが、マハンの予言が正しかったことは1941年12月7日パールハーバーと同じ時期に日本はフィリピンに侵攻した。フィリピンは海を間にした日本とアメリカが勝手にフィリピンを主戦場にイメージしていた。帝国主義とは誠におかしな時代だった。
フィリピン、ラテンアジア感情旅行(世界・わが心の旅:石川好)

2008年6月23日月曜日

新生フィリピンの意地


おはようございます。フィリピンが世界を動かしていたという事実をちっともわかっていませんでした。日本もアジアであるのに、いつも米国ヨーロッパの視点で
ニュースが流れているからでしょうか。人ごとのようですが・・・目からウロでした。

フィリピン・ラテンアジア感情旅行:石川好(NHK世界・わが心の旅)から

アジアで最も親米的な国であると自他ともに認めていたフィリピンに、まさかと思われる反アメリカ基地運動が持ち上がり、フィリピンの上院がそれを承認してしまったからである。
1986年2月の独裁者マルコスから選挙を経てのアキノ大統領に政権が移行したいわゆる「フィリピン2月革命」とその余波によるものだった。フィリピンの星といわれたマルコス大統領であったが、期待とは裏腹にスペイン植民地支配以来続いている支配権力層は逆に彼と結託し一層強化されていた。こうしたかつての植民地主義にも似た圧政に1972年戒厳令がひかれるくらいまでになっていたし、米国も裏ではマルコスに協力していたことへの米国への不信感が背景にあった。


この「『2月革命』の平和的達成は、世界中に鮮烈な印象を与え、その後の韓国(1987)、ビルマ(今のサイクロンのあったミャンマー1988)、中国(1989)さらには東欧諸国やソビエトにおける民主化要求運動の刺激やモデルになった。運動の連鎖が、最終的には東欧の社会主義体制を崩壊させ、東西冷戦の終結を導いたという意味では世界史の画期的となる出来事だった。そして『二月革命』の波紋が世界中をめぐって冷戦構造を瓦解させたことが、
再びフィリピンへと跳ね返って、在比米軍基地の戦略的重要性を決定的に低減させ、基地の撤収を可能にする環境をうみだした。直接には91年の基地協定の失効に伴う改定交渉のさなか6月におきたピナトゥボ火山の大噴火がその東麓に位置するクラーク基地を放棄させ、スービック海軍基地のみ修復することに合意した。この交渉においてクラーク基地分への援助がなく、大幅なカットになったのはこの苦境に冷淡な対応であったとしてナショナリズムの感情を刺激されて比国上院は批准を否定した。それはアキノ政権の意図したことではなかったが、結果として米国の呪縛を脱しアジアの一員として生きざるを得なかったため、新生フィリピンの真の自立への模索が始まったのであると(『フィリピン』綾部恒雄)、弘文堂)を紹介している。

2008年6月21日土曜日

講談に学ぶ江戸模様


おはようございます。西東京市は公民館活動がとても盛んです。会場もほとんど埋まっています。
講談というのは生の声で聞くものですね。講談師も聴衆の顔を見て、反応をうかがっていてイネムリなどは絶対にさせない話芸には感心しました。
来週26日には芝久保公民館で午後2時より「たますだれ」と講談の実演があります。
桃川鶴女:田辺一鶴の弟子だった西東京市の保谷市部分に在住s50年より。
落語家は500人、講釈師は大阪と東京で74人、女流は38人。
浪曲は100名(名古屋や北海道などにもいる)
振袖火事:16・17歳の大店のお嬢さんがお寺の坊主に恋をしたが恋焦がれて挙句にはなくなった。豪華な衣装を質屋にだした→それをかった別の娘もなくなった→3度目の娘も亡くなった。なにか供養が不足かと有志がお寺でも供養のお経をあげていたときに、燈明から出火して江戸中の火の海になった。このときに天守閣まで焼失してしまった。1月18日より80日間燃え続けていた。
江戸博の建物は江戸城の内部の間取りを再現したものだそうです。この辺の話は常設の講談はなく講壇関係者はハトバスにのっていまもガイド役もやっているので江戸については相当に詳しい。
●紀尾井町は紀伊、尾張,井伊家の屋敷があった故。
●東京の青山:は中国では大きな墓地をさしたことから、もうひとつは徳川家康に仕えた青山忠な成が住んでいたいたことから由来する。

せい‐ざん【青山】
 樹木の青々と茂った山。
 [蘇軾詩「是処青山可埋骨」]骨を埋める所。墳墓の地。「人間到る所―あり」
 琵琶の名。名器として知られる。平家物語7「かの―と申す御琵琶は」

●看板:看板は見上げる位置に、売る・買う人も対等に礼をする。しかしこれを口酸っぱくいうよりも一人でにそのような仕草をするために店の暖簾は真ん中に裂け目をつけて、自然と頭をさげて入店する仕組みになっているという。(これは日除けと看板だと思われるし、入るにはこの入りやすい部分がどうしても必要だったと思う。)
*質屋;将棋の歩は裏が「と金」になっているが、お金に換えるというシャレでそうです。
*まんじゅう屋;中国から」きた饅頭は中身が肉であったが、日本はほとんど食べないので、アンコをいれた。→美味しい→荒馬が看板(アラうまいというこれもシャレ)
●江戸は寺と橋が多い:両国橋、我妻橋、千住大橋、など大きな橋が5つと13橋がある。
●着物の柄:ひとつ季節の前のものを着る。トンボを夏に着るのは秋の先取り。櫛の模様は絶対ないのは、櫛の歯がこぼれるのは縁起が悪いと思われていた。
●お稲荷さんが一番多かったのは商売繁盛を祈ったから。
●神社は2礼(90度以上頭を下げる)2拍手、お寺は合掌について若い世代で混乱が見られる。お賽銭はお米だった。「おひねり」になっていた。
お賽銭で5円はご縁があるが、避けるべき賽銭は35はさんざんなご縁、65はろくでもない御縁、とてもよいのは555はいつも御縁がありますように。
●屋台:そばよりも圧倒的に江戸前寿司が多かった。
●明治神宮は誰をまつっているか:明治製菓、明治大学の総長、という新話もある。
●松(常緑)、竹(人生10年節目でちょっと戻って反省をしろ)、梅(忍耐の象徴)
庭石や梅は庶民は植えられないので神社・仏閣で楽しんだ。
●胸の扇子;命をかけている印で、講談に限らず、芸事、も同様な覚悟があった。
●泉岳寺は徳川家の菩提寺であったので、赤穂浪士のお墓があるのは、幕府の秩序を乱す・忠節を尽したあっぱれな振舞いと褒めるべきかのせめぎあいがあったが、家族や財産すべて擲ってのことなので称揚すべき方の判断となったそうです。しかしながら大石内蔵助等には切腹を命じた。
●仏花はなぜ菊の花?:本来は仏教は蓮の花であるが、いつも手軽には手にはいらず、
仏の話を聞くというゴロ合わせにあった花でもあったからだそうです。
●下馬:危ないところは主人みずから下馬した。えらい人も謙虚だった。

2008年6月20日金曜日

老後の自分を守る・助けてもらう。




自分の権利を守る制度には依頼すべき人を決めたりや介在する公証役場や家庭裁判所「成年後見制度」まで実行しようという人は多額の費用もかかるので、先送りします。
 まずお勧めは難しい名称でなにを目指しているものかにわかには判断できないが「地域福祉権利擁護事業」といわれるものです。これは簡単にいえばちょっと助けてという制度です。つかいやすい制度です。
たとえば介護保険料を支払っていないので、介護保険が受けられないというような場合もあります。
いろんな書類があってどれをいつまでにやるか、それを読んで記入する面倒はかなり感じている人が多いようです。介護保険ではやってくれないし、後見制度までは不要だし、でも心配だ。下記内容などについて毎月でもいいし、半年に1回、1年に1回などと、
一度もよりの「包括支援センター」・社会福祉協議会(西東京市の場合はここでした
)、市の高齢者支援課などにどこでやっているか聞いてみて、自宅まで来てくれるので利用方法を相談してみるとよくわかるようです。

① 福祉サービスについてどのような援助がうけられるか
 1回1時間1000円延長30分毎500円
② 日常的金銭管理サービス
年金受領手続き、公共料金・家賃支払い、日常生活に必要な預貯金の出しれ:
1回1時間まで2500円、延長は30分毎500円
③ 書類預かりサービス:
権利証、定期預金の通帳、印鑑、契約書類を金融機関貸金庫に保管。月1000円。

2008年6月19日木曜日

老人虐待の構図とささえあい


おはようございます。桔梗の花は紙風船のように膨らんでからひらきます。藍色がさわやかな印象を与えます。以下はちょと重い話のようですが、キチンと説明を受けるとそうでもありません。
ささえあい:日本高齢者虐待防止センター事務局長梶川義人がこんな話をしてくれました。若いときに受けたものは虐待にならないが、逃げられない・抵抗できない高齢期には虐待といわれる。虐待の定義はあいまいで、人によって受取方が違う。
被虐待者がいてそれを囲む虐待者・それをみている観客・それをみている傍観者がいるという構図になっているそうです。「人の目」がない密室(地域)は荒れる。あれっと関係思ったら、シニア関係なら何でも相談できる自分の住む近くに必ずある包括支援センターや人権擁護委員などに相談・連絡・通報くださいとのこと。
ところがやっやっこしい説明をしてくれました。「当事者は虐待の意識がない」この説明もにわかにはわかりにくい。ましてやこの虐待者を応援する観客までいるという。
虐待者は段々エスカレートするのかもしれない。毎日介護は面倒だし、認知症の人などは動かれると介護しにくいので縛りつけられるとか、放浪されても探す手間があるので部屋に閉じ込める。ときには介護者が自分のうっぷんを晴らす意味で殴る蹴るをするに至る。その介護者が「観客」である知人に訴えるが、相談者である虐待している人は虐待の事実まではいわないし、その知人もいわゆる被虐待者の意見を聞いていないから同情してしまう。そうした意味でこの知人は虐待の抑止力にならない。
暗室では、極端になって相手の立場に立てない状態→手加減なし。
そうすると虐待者だけが悪いように思われるが、虐待する側の事情もあることを高齢者虐待防止法が考えてあるそうです。
本当に微妙ですが、手加減があれば虐待にならない。高齢者の心身に深い傷をあたえ、時には犯罪上の行為となるようなダメージを受けないかが境目であるそうです。又そういう状況を目撃した場合、もし自分だったらどうする。これは耐え難い方に思われるなら虐待に該当する可能性がある。
虐待の種類は①身体的②性的③心理的④経済的⑤ネグレクトの種類あるそうです。
セルフネグレクト:自分で自分を見殺しにする(ゴミ屋敷になっていてでゴミを他から集めてくるような自分を否定することで安心感を得ようとする。犬猫を集める。病院には行かないと拒否してしまう)これが急増しているそうです。

ある「支えあいの人」がこんな質問をした:
Q・ある近所の家でドタバタする音が聞こえる。時々みかけるお母さんの生傷が絶えない。「どうかされました」「転んだもんだから、たいしたことないんです」と息子の暴力を肯定しないのです。
A・先生の答えはそうなんです。母親は肯定すれば息子が近所で暮らしにくくなるのを慮って我慢してしまうのです。例えば母親について冷静な判断ができるな人は少なく兄弟や親の身内が通報するまでに至らないので、いわゆる「観客」となって加害者を応援してしまう。
Q・「そのお母さんもどこかに移転してしまったがどうなんでしょう。結局何も助けてあげられなかったんです。」
A・そのころは法整備もできていなかったが、現在はかなり介入できるようになっているそうです。そのお母さんも分かってくれる人がいたというのは記憶に残っていることでしょう。

2008年6月18日水曜日

動物は語る


日本獣医生命科学大学は中央線の吉祥寺より西の立川方面に向って2つ目の武蔵境の駅前にあります。そこでの講義の聞きかじったところのメモです。
昔は牛が中央線の電車を止めたというようなのどかな時代があった。

兎の跳躍力で腰をやられることが結構ある


馬のひねり棒:しまうまがライオンに捕まったとき痛みを感じないようにする仕組みが
あり、厩舎での馬でも上顎に輪ロープをかけてねじってゆくと馬はトロントした眼になってを何も感じない状態に入るそうで麻薬がいらないそうです。この仕組みは間にも仕組まれている。

痛大きな動物はたった状態が一番体によいが、横になると体に相当なダメージがくるそうです。
ペット産業は1兆円産業に:この日本獣医生命科学大学の利用実績が大幅にのびた。
首についていえば人間は直立だが、動物は地面と平行なのでヘルニアが結構ある
MRIもある;人間も一緒に入るので磁気をもったポケットのカードがやられる。
学内のは混んでいるので練馬や江東区にあるのを利用し、その後同大学で手術する。学内でも大きな建物である医療センタービルは5階建であるが、4階までが医療施設である。学内の経営資源に大いに寄与しているとのことである。
医療施設もほとんど人間に同じ高度医療:ガンやメタボもある。
特異な例ですが、自宅までいって豹の治療は治療する側に危険回避策なくやりたくないそうです。
猫や犬を入院させると、飼い主から離れ心理的な疎外感でメンタル面で胃潰瘍などを起こしてたりする。

犬は飼い主の家族に序列をつける。猫はマイペース。
ペットがマンションでの飼育が許容されるようになっている。
日本以外で狂犬病の恐れはある
ビーグルやダックスフンドは日本人が短足ゆえか人気がある。

以上取り止めがないのですが・・・。

2008年6月17日火曜日

100円の気持ちよい集会所


東京の都下小平市鈴木町1丁目に住民パワーを結集した新集会所が完成した。昭和43年より建設業者よりタダで譲り受けた中古のプレハブにかわるもので、杉のムク材、24時間換気、災害時備蓄品もある、室内のエアコンや湯沸かしは以前のものを再利用。新築の費用は1080万円、事務手続きなどみな手弁当でやった。この自治会は291世帯のうちの90%が加入、毎月改築費として100円を14年間蓄え、公的補助や銀行融資もなく自力で、一般会計の繰越金を特別会計に回して蓄えた。担当役員には、元公団の2人がいて一級建築士、登記事務など経験豊富だった。造成工事に予想外の費用がかかりオーバーした分は会員有志から借り、後に繰越金から戻すことでクリアした。いつも役員の後押しは自治会の主婦だった。「改めて女性の力って凄いと感じた」という。この団地も70歳以上の高齢者が7割にもなった。「この団地にはタヌキの夫婦がやってきます。カッコウもウグイスもきて空気のいいところです。集会所を核にして住民のつながりがさらに強くなってほしい」
爽やか初夏の風が通り抜けていましたと結んでいる。
ほのぼのマイタウン2008年6/7月号より
写真はクマガイソウ

2008年6月13日金曜日

なぜ旧暦が廃止されたかのひとつの理由


いまは旧暦には関心がありませんが、中国は正月でも旧暦を守っていますが、日本人は変わり身が早いですね。江戸時代は日の出から日没までが昼で、残りは夜でした。季節によって時間がだいぶ違っていたことになります。

講座:江戸の旧暦と暮らしのリズム:黒岩重人
ブログ:http://blog.livedoor.jp/iwakuro/
サイト:http://wiki.livedoor.jp/iwakuro/d/

なぜ、旧暦は廃止されたか
俗にいうところの旧暦とは、明治6年(1873年)1月1日以前の暦、いわゆる太陰暦太陽暦(太陽の一周=1年365.2422.日)と月一周29.53059日の併用組み合わせをいいます。
当時の明治政府は明治5年11月9日付けの詔で「今年の12月3日を以て、明治6年の正月元旦とする」と布告しました。この突然の改暦はそれなりの理由もあった。
 明治政府は極度に困窮していました。江戸時代から明治初年までは、役人の給与は年俸
でしたから、1年が12月だろうが13月だろうが(太陰暦太陽暦は両方の性格があるので、太陽暦の日数365日と、太陰暦の月29・5日かける12ケ月での合計360日とでは、11日の差があるので数年のうちには閏月をもうけて13月にする年もあったし、明治6年がそういう閏月を設ける年であったのです。)
問題がなかったのですが、明治4年9月には官吏の月給制が実施されていらい、そういうわけにはいかなくなってきた。大隈重信の談話集「大隈伯昔日譚」によれば13月ならばもう一月分の支給を余儀なくされるが、そのような余裕もなく、明治6年の閏月を除外することができたし、実はもうひとつの大きな利益があった。
明治5年の12月3日を明治6年1月1日にするわけですから明治5年の12月は2日しかありません。政府は、たった2日しかない12月には官吏の給与を支給しないことにし、給与をこれの節約分も含め、2月分を節約することができた。
もちろん、改暦は欧米諸国との交際を開いて「文明開化政策」を推し進めていくうえでも彼らと同じ暦にする必要があったということです。

2008年6月12日木曜日

会社再建など


林文子さんがダイエーのCEO会長になったとき一番最初にやったことは、従業員のトイレをリニューアルしたことだった。
これを読んで、どうして顧客へのサービスを先にしないのだろうかと思った。それは従業員がお客様と同様に幸せ感をもっていないと、笑顔や働く喜びが自然と出てこないからだという。通常会社を再建する場合、利益優先になってしまう、再建途上は達成すべき目標が沢山あり、低迷したムードになっている。これをヤル気に変えるには従業員を先にしないと、これだけ私達のことを考えてくれたのだ。しかもこんな苦しい時にと思うに違いない。こういうトイレ位であっても何かやってくれそうだし、ともにやろうと従業員の皆さんは思うにちがいない。
この林さんのもうひとつのエピソードは車のいつもトップセールスだったときだった。ショールームにいつもの小学生の姉と弟がカタログをもらいにきた。その日の担当は男性で「ああまたきたな」という思いだったし、お客になる筈がないという思いだった。
林さんは「いらっしゃい、ジュースを飲んでちょうだい。車好きなのね?」、この問に可愛い姉弟は無言だった。そうしているうち「車にのってみる」「ウン乗せてもらえるの?」と元気な返事が返ってきた。満足して帰ったことは疑いがない。
そうして20日も過ぎた頃、この子供の感じのよい両親が見えて、「子供達にとてもよくしていただいて有難うございました」とお礼に見えた。この父親は会社の社長で別の会社の車の愛好者だったが、いろいろお話している内に林さんの会社の車に変えてくれた。この林さんはどんなお客様でもおろそかにしない。飛び込みセールスを1日100件(訪問時の玄関のインターホンの応答が無言の場合は数えないで、今忙しいのよというのを数えて)を続けてきたので、飛び込みセールスは、最初は突然だからうるさがられるが、何かお役に立ちたいという気持ちの表れから、お客様に好印象というか面談してもいいわという扉を開けてもらう糸口をみつけようとしていたのがこういう子供との対応になっただそうです。

2008年6月11日水曜日

キャラクターグッズの威力


昨日のことです。新宿の西口のイベント広場で床と同じ平面の小さなステージに赤い絨毯が敷いてあり、その前で50人位の人がしゃがんで待っていた。イヴェントの目的は琵琶湖の観光PRでした。以前からこの琵琶湖周辺は行ってみたかったので、観光案内がふんだんに集まりましたので助かりました。

しばらくすると、司会者がマイクをもって誰やらを呼んでいます。いまはやりの着ぐるみというのですか・ぬいぐるみというのでしょうか・キャラクターが登場してきました。ひこちゃんほか2匹が登場して、ファッションショーのように「見得ミエ」をして、チョットはねたりすると、どよめきのかわいいの歓声でした。

周囲を見渡したら若い女性が90%でした。これを撮影していましたが、携帯電話の撮影よりも、デジタルカメラを持参しているひと・それもかなりズームのきくカメラまでももっていました。私はこのキャラクターの仕草や演技しかも、司会者とくらべ30cmも低いし、これは女性がなかに入っているのではないかという演技力や体力への関心も勿論ありますが、これをみている観客の反応のほうが興味がありました。

奈良県の古都のキャンペーンのマスコットについて、イメージが良し悪しについてテレビでも話題になっていましたが、観光案内をみるよりも、このキャラクターをみにわざわざ出かけてくるのには驚きました。司会者の観光PRもどの程度伝わったか心もとないところですが、キャラクターの威力には驚いたしだいです。私のみたのは下記の「湖国ゆるキャラ大集」合HPの16番ですが、滋賀県だけで数えきれないほどのキャラクターがいることでしたし、それほどこの16番の「ひこちゃん」の人気がオッカケを生むほどであっかたというこです。この熱気には圧倒されたことでした。

HPは下記ですが、たどりつかないので:滋賀県観光情報(一字あけて) キャラクター→スポレク滋賀2008開催150日前イベント「湖国ゆるキャラ大集合」ならたどりつけそうです


2008年6月9日月曜日

野球記者


東京経済大でのマスコミ講座
報知新聞編集委員:洞山和哉(ホラヤマカズヤ) さんの話:
スポーツ記者の勤務は野球の場合球場の練習風景の取材で12時開始、帰宅は12時である。
記事は頭でなく足で書け(現場に行け):食事は朝・昼・夕・飲む・ラーメンと4食は付き合い上手で体力勝負だし、食べることが好きな人は記者に向いている。

 酒を飲むと口が軽くなりネタが取材しやすくなる。目の前でメモをとると、警戒されるので、時々トイレに入って面白いネタはコースターにメモを書く。
それでも、こういう風に書きますよと了解はとる。
長嶋宅の前で深夜遅く取材のために待っていると、近所の人が怪しんで通報するのでパトカーが回ってくると、尋問にあうが名刺で身分を証明するし、他社の記者も競争で待つことになるが、業と他社の記者に油断させる意味で「先に帰る」と言い残し、しばらくして単独取材しようと思うが、戻ってみると未だいたりして、他社も同じ行動パターンをとることもある。

長嶋監督は高くて/きれいな立派な店を好む。王監督は縄のれんでも、屋台でもおいしいところを好む。
球場での取材なら他社との違いが出せないので、野球選手と球場外で付き合う必要がある。
ともに飲食をともにするが、 選手のほうが収入多いのでどうしても3・4回のうち1回は記者も費用をだすが、安くておいしいところの情報をよく知っている必要があり、そういうところを選手も面白がる。
給料が少ないので選手や監督に演技でボヤク、そうすると我が家にこいということで金がないはずなのに、タクシーなどで行き、自宅取材が可能になる。
選手の奥さんからの年賀状であなたが来ると試合にずいぶん勝てるので遊びにきてというありがたい言葉もあるし、逆の場合もある。

 新聞は時間帯で記事内容が異なるのは、地方へ送るときには締切が早くなるためであり、これにはスクープは書けないのは、早く記事にすると他社に抜かれてあいまう危険性があるので、最終の版の首都圏版や駅売り版に載せる。
記者は無料でしかもよい席で野球見物ができると羨ましがられるが、一度でよいから一般席で生ビールを飲みながら見物してみたいそうです。
 原稿がうまい記者は取材量が少ない・原稿が下手な記者は1年もすれば平均点の文章になるが、取材には熱心である。この業界はやはり新聞なので、文章表現力よりも、現場取材で得たニュースが優先になるのでこの方がえらい評価を得ることになる。
先に記者は現場第一というが、最近PCの影響で、一切取材しないで選手のブログを総なめにしてまとめる記者も出てきているそうです。これが結構記事になるが、洞山さんとしてはついていけない。

 球団やアメリカンリーグの日本人選手専属の記者もいるが、1年で顔を覚えられ、2年目で普通の取材ができ、3年目で独自の記事が書けるが長くて 3年から5年であるが、3年間の専属が多い。
 巨人に行ったラミレスは球審の判定にほとんど異議を唱えないのは、本人の気性が穏やかな性格でもあるが、本人がいうには球審が判定をくつがえさないし、こちらの嫌な気分を切り返さないと、打撃に影響がでるからだとのこと。又帰化するらしく、巨人の外人枠が一人浮くことになる。あの巨人軍には試合にでられない選手の金額合計が20億円にもなるので、この金額が寝ていることになる。
社会部の記事ものるが、一般紙は似たような記事であるが、意外にも共同通信の記事を基礎に、独自の取材で立派な記事が書かれることも珍しくないという。エロイ記事は外注にだすそうです。

たかがメダカではなかった。


中央線の「武蔵境」の武蔵野市にある日本獣医科学大学で武蔵自由大学の講義が始まりました。
メダカ:ベトナムの学校はすずめの学校だという。「先生が鞭を振りふりチイパッパ」とスパルタ教育をやっている。一方日本は「めだかの学校」で「誰が生徒か先生か」 ... これでは、日本ではエリート教育は進んでも国民全体に力をつけることにはならなくなるというような喩えに引用されている。
メダカを西洋に紹介したのはかの有名なシーボルト先生だそうですが江戸時代には、日本人はメダカに夢中になっていたが、中国から来た金魚に押されて、普通の魚に存在になってしまった。
メダカで『男前』『超男前』をご存じでしょうか?今日本ではメダカが大変なブームになっているそうです。熱帯魚の専門店はありますが、調べたら本当にメダカの専門店まであるのです。
しかも『男前』は一匹10万円、『超男前』にいたっては一匹100万円もするのです。
一撮(つかみ)千匹という。これでは大変なお金になります。
度量衡という長さ・体積・重さになりますが、秦の始皇帝が始めた制度です。これは黍を64粒ならべて=一圭、4圭=一撮(つかみ)、十撮=一合、十合=一升と定めたそうです。黍の大きさが均一だったのでしょうかと気になりますね。
このメダカも癌の研究に利用されているそうです。ネズミやイヌを実験動物に利用されていますが、このメダカは実験結果が早くわかるし、費用も安くすむ。このメダカの実験で検証して、費用のかかる哺乳類実験にかかるような工夫もされているそうです。又英仏においては動物愛護の精神から、哺乳類の動物で実験した化粧品は売ってはならないように間もなく法規制されるそうです。米国では自主的に倫理委員会の判断によるそうです。
メダカのhpは
http://r25.jp/magazine/ranking_review/
http://medakahonpo.com/sitemap.html/

2008年6月8日日曜日

浮世絵の時代


6/8までの開催の幕末浮世絵展が三鷹市美術ギャラリーに行ってきました。が行われていました。副題は大江戸の賑わいー北斎・広重・国貞・国芳らのいた時代です。
文化は1813年~17年であり、文政は1818年から29年です。
中右瑛という膨大な浮世絵のコレクションの一部を公開したもので、
最近もあちこちで展示されています。そのパンフレットにある解説書を読むとこんなことが書いてあった。この文化・文政の時代は幕財はゆるみっぱなし、それが却って町人文化を爛熟したものにした。文化文政期は江戸の二大悪所は吉原、芝居であった。このころの街は夜毎辻斬りや強盗が横行し、殺人は茶飯事だった。岡場所では売春、男色の世であり、今にも落ちそうな熟柿のように腐りきっていた。となると熟しすぎると、乱れに乱れることの歴史が繰り返すのでしょうか。(そうなると明治維新までもっていたのは下級武士や農民だったのでしょうか?)
この写真は浮世絵には関係ありません。

2008年6月7日土曜日

新米の農家


ヤーコンを2つ買って一つをまだ食べていないが興味のあるMさんにもあげた。自宅に帰って自分の分を切ってみたら、箸くらいのいわゆる「ス」となった穴があり、周囲が黒く腐っていた。あわててMさんに電話して、「あなたに上げたの同じ状態かもしれない」と知らせた。まだ食べていなかったが、3日後同じ状態だったことがわかった。そこでしばらくしてそのヤーコンを売っている農家を教えてくれた人にいったら「それはね、自分はそういうことは無かったが。その農家の人にいえばいいのよ。一緒に行ってあげる」ということで行ってみると、その農家の笑顔でお愛想のよい奥さんが出てきた。
「ヤーコンを外見から見て腐っているかどうか見分ける方法はないですか」「残念ながら私も知らないの。申しわけなかったですね。」といいながら4つも取り出して、その内2つは「ひび割れ」があったし、その他のまともに見えるものの一つを切って見せてくれたが。それは問題なかった。「これらを持ち帰ってください。当然無料です。そうそうこの玉ねぎももっていってください」と渡してくれた。こうなると見事な気持ちのよいクレーム処理だったので、無理にも200円を置いてきました。「これを作ったのは先代から受け継いだご主人もまだ農業は1.5年なので皆さんに教えてもらいたい」と逆に言われてしまった。でもなんとも気持ちのよい取引だったし、早速半分を先のMさんにも上げた。
下記はヤーコンのHP
http://www.ami-yacon.jp/y_yacon1.html

2008年6月5日木曜日

ファイマンさん行状記その2


ラスベガスである女性からの紹介でプロの博打うちのニック・ザ・グリークに会うことができた。「君はプロの博打うちだそうだね」「あっその通りだよ」
「じゃこのテーブルの勝負のクラップスの勝ち目は0.493しかないのに、どうやって博打で生計がたつのか教えてもらいたいね。」
「あんたの言う通りだよ」と彼は答えた。「実を言うとね、おれはテーブルなんぞでは絶対賭けやしない。」「えっいったいこの勝ち目というものがいつあるんだい?」彼はとても信じられないで聞いた。「それは案外簡単なんだよ。俺はテーブルの周りに立っていると誰かが「穴は絶対9が出る!絶対9だ!」と言い出す。すっかり興奮しているから、「これは賭けたがる。」だから「9でないほうに4:3で賭けるよというわけだ。そうすれば長い間には俺の勝ちになる。むきになってラッキーナンバーみたいなことを信じたがるカツギヤ相手に賭けるのさ」彼はまた続けて言った。
「俺の評判ができた今じゃ、もっと簡単だよ。人はたとえ自分にあんまり勝ち目がなくても、万が一勝てばかのニック・ザ・グリークを負かしたという自慢話になる。たとえ負けてもニック・ザ・グリークと賭けをしたと言えば、話の種になるからみんな俺を相手に賭けたがるんだよ。だから俺は本当に賭けだけで生きていけるんだ。我ながらいい御身分だよ。」ニック・ザ・グリークはある意味で本当に修行を積んだ人間なんだ。この博打うちは気のいい魅力のある男だった。だからこの世の中のからくりというものは、よっく知らなくてならないのだと結んでいる。

2008年6月3日火曜日

ファイマン行状記その1


米国ノーベル賞物理学者の自伝「御冗談でしょう、ファイマンさん」がいうにはコーネル大学とシカゴ大学の両方の大学から招へいがあってどちらも譲らないのでどんどん給料がつりあがった。
「その地位の給料は○○○ドルだったんですよ」と莫大な額が書いてあった。ゆうにその時もらっていた給料の3か4倍はあった。まったく気が遠くなるほどの額だった。
そこで彼は「この給料のことを読んでからますますこれは辞退しなければならないと決心した。実はいつも彼がやりたいと思っていることは、つまり素晴らしい女性をアパートに囲って何かいいものを買ってやるとかいったことがこの給料なら実際にできるからです。そしてそうなればもうどういうことになるかは言うまでもない。彼は彼女が何をしているかなどと絶えず気を揉んだ上、帰ればいざこざが持ち上がるに違いないから、そうなると物理の研究に打ち込むことができなくなる。僕がいつもやりたいと思っていることは実は自分のためにならないからということで辞退したのだそうです。

2008年6月2日月曜日

うさぎ苔


新聞の山野草の案内をみて、あきる野市にいってきました。ほんとに小さな販売会でしたが、趣味の人が作っているので、栽培の仕方など懇切丁寧でした。

ここでみつけたのがウサギゴケです。花が年中さくそうで、白ウサギの耳みたいな花です。

1年で4倍にも増える。半日蔭で水を欠かさなければよいとのことでした。

また農協によって参りましたが、花の安いこと、23区で買うのにくらべれば半分で購入できます。またタイ焼きも購入しましたが、写真に撮る前に食べてしまいましたのでご覧いただけないのが残念ですがこれは100円で300円の値もするアンコの量といい味も結構なものでした。あきる野市は売らんかなという姿勢ではなく、知人や近所の人におすそわけするような所で、住みやすく、人情豊で、自然豊かなところでした。