2008年6月23日月曜日

新生フィリピンの意地


おはようございます。フィリピンが世界を動かしていたという事実をちっともわかっていませんでした。日本もアジアであるのに、いつも米国ヨーロッパの視点で
ニュースが流れているからでしょうか。人ごとのようですが・・・目からウロでした。

フィリピン・ラテンアジア感情旅行:石川好(NHK世界・わが心の旅)から

アジアで最も親米的な国であると自他ともに認めていたフィリピンに、まさかと思われる反アメリカ基地運動が持ち上がり、フィリピンの上院がそれを承認してしまったからである。
1986年2月の独裁者マルコスから選挙を経てのアキノ大統領に政権が移行したいわゆる「フィリピン2月革命」とその余波によるものだった。フィリピンの星といわれたマルコス大統領であったが、期待とは裏腹にスペイン植民地支配以来続いている支配権力層は逆に彼と結託し一層強化されていた。こうしたかつての植民地主義にも似た圧政に1972年戒厳令がひかれるくらいまでになっていたし、米国も裏ではマルコスに協力していたことへの米国への不信感が背景にあった。


この「『2月革命』の平和的達成は、世界中に鮮烈な印象を与え、その後の韓国(1987)、ビルマ(今のサイクロンのあったミャンマー1988)、中国(1989)さらには東欧諸国やソビエトにおける民主化要求運動の刺激やモデルになった。運動の連鎖が、最終的には東欧の社会主義体制を崩壊させ、東西冷戦の終結を導いたという意味では世界史の画期的となる出来事だった。そして『二月革命』の波紋が世界中をめぐって冷戦構造を瓦解させたことが、
再びフィリピンへと跳ね返って、在比米軍基地の戦略的重要性を決定的に低減させ、基地の撤収を可能にする環境をうみだした。直接には91年の基地協定の失効に伴う改定交渉のさなか6月におきたピナトゥボ火山の大噴火がその東麓に位置するクラーク基地を放棄させ、スービック海軍基地のみ修復することに合意した。この交渉においてクラーク基地分への援助がなく、大幅なカットになったのはこの苦境に冷淡な対応であったとしてナショナリズムの感情を刺激されて比国上院は批准を否定した。それはアキノ政権の意図したことではなかったが、結果として米国の呪縛を脱しアジアの一員として生きざるを得なかったため、新生フィリピンの真の自立への模索が始まったのであると(『フィリピン』綾部恒雄)、弘文堂)を紹介している。

0 件のコメント: