いまは旧暦には関心がありませんが、中国は正月でも旧暦を守っていますが、日本人は変わり身が早いですね。江戸時代は日の出から日没までが昼で、残りは夜でした。季節によって時間がだいぶ違っていたことになります。
講座:江戸の旧暦と暮らしのリズム:黒岩重人
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なぜ、旧暦は廃止されたか
俗にいうところの旧暦とは、明治6年(1873年)1月1日以前の暦、いわゆる太陰暦太陽暦(太陽の一周=1年365.2422.日)と月一周29.53059日の併用組み合わせをいいます。
当時の明治政府は明治5年11月9日付けの詔で「今年の12月3日を以て、明治6年の正月元旦とする」と布告しました。この突然の改暦はそれなりの理由もあった。
明治政府は極度に困窮していました。江戸時代から明治初年までは、役人の給与は年俸
でしたから、1年が12月だろうが13月だろうが(太陰暦太陽暦は両方の性格があるので、太陽暦の日数365日と、太陰暦の月29・5日かける12ケ月での合計360日とでは、11日の差があるので数年のうちには閏月をもうけて13月にする年もあったし、明治6年がそういう閏月を設ける年であったのです。)
問題がなかったのですが、明治4年9月には官吏の月給制が実施されていらい、そういうわけにはいかなくなってきた。大隈重信の談話集「大隈伯昔日譚」によれば13月ならばもう一月分の支給を余儀なくされるが、そのような余裕もなく、明治6年の閏月を除外することができたし、実はもうひとつの大きな利益があった。
明治5年の12月3日を明治6年1月1日にするわけですから明治5年の12月は2日しかありません。政府は、たった2日しかない12月には官吏の給与を支給しないことにし、給与をこれの節約分も含め、2月分を節約することができた。
もちろん、改暦は欧米諸国との交際を開いて「文明開化政策」を推し進めていくうえでも彼らと同じ暦にする必要があったということです。
俗にいうところの旧暦とは、明治6年(1873年)1月1日以前の暦、いわゆる太陰暦太陽暦(太陽の一周=1年365.2422.日)と月一周29.53059日の併用組み合わせをいいます。
当時の明治政府は明治5年11月9日付けの詔で「今年の12月3日を以て、明治6年の正月元旦とする」と布告しました。この突然の改暦はそれなりの理由もあった。
明治政府は極度に困窮していました。江戸時代から明治初年までは、役人の給与は年俸
でしたから、1年が12月だろうが13月だろうが(太陰暦太陽暦は両方の性格があるので、太陽暦の日数365日と、太陰暦の月29・5日かける12ケ月での合計360日とでは、11日の差があるので数年のうちには閏月をもうけて13月にする年もあったし、明治6年がそういう閏月を設ける年であったのです。)
問題がなかったのですが、明治4年9月には官吏の月給制が実施されていらい、そういうわけにはいかなくなってきた。大隈重信の談話集「大隈伯昔日譚」によれば13月ならばもう一月分の支給を余儀なくされるが、そのような余裕もなく、明治6年の閏月を除外することができたし、実はもうひとつの大きな利益があった。
明治5年の12月3日を明治6年1月1日にするわけですから明治5年の12月は2日しかありません。政府は、たった2日しかない12月には官吏の給与を支給しないことにし、給与をこれの節約分も含め、2月分を節約することができた。
もちろん、改暦は欧米諸国との交際を開いて「文明開化政策」を推し進めていくうえでも彼らと同じ暦にする必要があったということです。
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