2008年2月18日月曜日

ジョン万次郎と電信機のころ



ジョン万次郎は幸運の人であった。
漂流した先の鳥島で救助されたのは捕鯨船長・ホイットフィールド船長は黒人奴隷解放にも理解がある公平な人であった。かれの聡明さを
評価し子供同然の扱いもしてくれて、まだ公立の学校もできていない時期に測量学校にもいれてくれたので米国の事情や技術も詳しく知ることになった。
彼の心底には日本の母親が生存しているかもしれないし、なんとしてでも親孝行したいということで命をかけた帰国であった。帰国した先は沖縄の那覇で藩主の島津斉彬に蒸気汽船のことなど西洋文明の進歩の実態をきかれた。
「その蒸気船とかいうの船は火の魔術によって走る、と報告されている相違あるまいな。その速さは、潮の流れほどもあるそうじゃが・・・」というような認識レベルの尋問だった。
江戸に連行されたがやはり開港をせまられていたのでやはり時代が要求していた情報が高く評価された。
本来は異国にいったものは事情が何であれ、獄門に処せられる可能性が大だった。おりしも開港の方針になったので、結局逃亡ではなく、遭難の認定がくだされ、藩主の山内の理解もあって終生扶持米が下されることになった。
そんな万次郎が電信についての説明は大層骨折ったとしても驚くにあたらない。
電信機を発明したモース(1791-1872年)は久しくなぶりものになっていたし、「神は何をもたらしたまいしか」といった電文を初めてワシントンの最高裁判所
からボルテチモアに送ったのを機に、ようやく認められるになってからである。アメリカ人の多くも、モースの何が何だかわけがわからなかった。万次郎はこんなふうに報告している。
「電信というのは、道路上に高く張られた針金を使用するもので、そこにはつるされた手紙は、使いの者の助けがなくても、宿場から宿場へ運ばれるのです。
手紙がお互いにぶつかり合わなぬように、ある仕掛けがしてありますが、私にはそれがどんなものかわかりません。文字は磁石が書いてくれるのです。」と説明した。
ペリー提督が贈り物のなかに電信機もはいっていたが、これにたいしての反応は、「電線の一方の端から打たれた電文は疾走してきた使者が到着する前に、もう一方の端に届いた。しかも日本文と蘭文をはっきり読み取ることができた。電線をよく調べてみても、通信管などは隠されていなかった。すると魔法を使ったのだろうか。それとも何かの方法を用いたのであろうか。」
この程度の時代から今を見ると遠い空の彼方を見るようだ。

彼は藩主の承認をえて塾をひらいた。この辺鄙な土佐で新知識が得られることは革命的な出来事だった。見聞したものを西洋の生活様式の特徴など生々しく語った。塾生に後藤象二郎がいた。
また彼が持ち帰った世界地図を写した絵師河田小竜は彼に聞いた議会制のアイディアを坂本竜馬に吹き込んだといわれる。

ジョン万次郎漂流記・宮永孝訳・雄松堂・海外渡航記叢書5より
写真は中東文化センター常設展示分より

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