2007年12月28日金曜日

一橋慶喜・渋沢栄一・岩崎弥太郎







渋沢栄一という人は埼玉の篤農家の生まれで、江戸末期の世の乱れに嘆いて、国家の憂いをおのが憂いとして、京都の実情に赴いた。ゆくりなくも一橋慶喜公に召され、3年の激動の春秋を過ごした。その後将軍となった慶喜公の実弟なる徳川民部公子はフランスでの博覧会でナポレオン3世への礼式出席と留学することとなった。その随行役をせよとのことで赴いたのが1867年(慶応3年)のことであった。その随行役として何くれとなく心を砕き、公子からも何事も相談を受ける身になっていた。ある程度予想はしていたものの、折しも故国での政変・幕府崩壊(大政奉還)により留学などの志も遂げ得ず,空しく帰国することになったのが明治元年のことであった。江戸に到着し、公子とも別れ、託された手紙を、慶喜公の幽居している駿河に届けながら、残生を送る気持ちであった。そこに落ち着く前には、託された手紙には返書があるので、それを公子に持ち帰るように命をうけていた。ところが返書は届けなくてもよいし、静岡での超緊縮財政の中であるが、有り難くも、ここで勘定頭の職に励めよという達しがあった。栄一は自分でも職欲しさに戻った訳でもなく、返書も届けなくてもよいというご指示に立腹してどうにもおさまらなかった。再三に渡って督促したが、その理由を説明しようということで召された。これは昵懇の家来になった栄一を、水戸に返書を持参させたら、公子が放さずに自分の相談役にするであろう。そうした場合には水戸の内部では嫉妬されて立ち行かない状況になるは必定という心配をされていた。これが引き留の深慮遠謀であった。徳川慶喜公はこういう人であった。

以上と以下は渋沢栄一の雨夜譚(あめよがたり)による。

渋沢は岩崎弥太郎に船遊びに誘われた。二人は合本組織(株式会社組織)の是非をもって激論を交わした。渋沢は合本法を是としたのに対して、岩崎は専制主義経営を唱えた。岩崎は渋沢と組めば日本の実業界を牛耳ることは易いと説いた。この思想の対立により、この結託は成立しなかったが、後に三菱が組織の三菱と言われる合本経営体になったということはいうまでもない。

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