2007年12月5日水曜日

もう一つの時間

写真はゆんフリー提供
東京で忙しい日々を過ごす編集者だった彼女は,何とか仕事のやりくりをつけて、クジラを撮影する僕の旅に一週間だけ参加した。前日の夜遅くまで東京で仕事していた彼女にとって,南東アラスカの夏の海はページをめくるように現れた世界だった。
ある日の夕暮、ザトウクジラの群れに出合った。僕達は小さな船で,潮を吹き上げながら進むクジラのあとをゆっくりと追っていた。クジラの息が顔にかかってくるような近さで、それは圧倒的な風景だった。あたりは氷河と原生林に覆われ、悠久なるときの流れの中で、すべての自然が調和し、息づいていた。彼女は船べりにもたれ、心地よい風に吹かれながら、力強く進むクジラの群れをじっと見つめていた。その時である。突然,一頭のクジラが目の前の海面から飛び上がったのだ。巨体は空へ飛び立つように宙に舞いあがり、一瞬止まったかと思うと、」そのままゆっくりと落下しながら海を爆発させていった。それは映画のスローモーションを見ているような壮大なシーンだった。
ずっと後から彼女はこんなふうに語っていた。
「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったって?それはね、私が東京であわただしく働いているとき、同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛びあがっているかもしれない、それを知ったこと・・・・東京に帰ってあの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった。」と
旅する木:星野道夫著:もう一つの時間

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