2008年9月4日木曜日

江戸幕末の官僚:川路聖謨


いっきに秋とはいきませんが、交差点の明るいところの街路樹で一匹のコウロギが鳴いていました。
 
四国は高知市の宿は坂本竜馬の育った屋敷のあとでした。ちょうどそのバス旅行の前に読んでいた本です。

 甲州の百姓であった父・内藤吉兵衛は郡代が徴収する年貢を出入りの掛屋(諸大名などに貸し付け運用していた)の手代をしていて、どんなに努力しても手代止まりを解決するには江戸にでて幕史になって栄達することだった。それもいちかバチかのことであった。旗本や御家人の養子になることを考え、御徒の株を大金の300両で買った。その子供は川路家の養子になった。しかも俸禄の全部は養親のもの、生活費も吉兵衛持ち、足場とはいえないを足場を土台に勉学と剣術とに励み、運と根にゆだねて就職活動に気の遠くなるような、奮励努力を重ねた。

嘉永5年(1852年)頃の話です。アメリカが日本の扉をこじ開けるため、使節を送るというのはヨーロッパでは周知の事実だった。ロシアもそのことを知って、アメリカに対抗するため、使節として提督プチャーチンを日本に送ることになった。ロシアは2度ともロシアの国書を受け取らずに追い返した。その後であるが、すでにアメリカのペリーからは国書を受け取っている。プチャーチンからのを断っても意味がない。諸外国への均衡も欠く。幕閣の阿部は受け取ってもよいという回答を長崎奉行に大沢豊後守に送った。外交交渉については川路と筒井にゆだねられた。
ゴンチャロフという秘書・相談役は観察していて、その著「日本渡航記」に書いている。「私の気に入ったのは、川路に話しかけると、立派な扇子をついて、じっと見つめて聴く態度である。話の中程まで彼は口を半ば開いて、少し物思わしげな目付きになる
ーこれは注意を集中した証拠である。額に浮かんだ微かな皺の動きには、彼の頭の中の概念が集まって、聴いている話の全体の意味がまとまってゆく過程がはっきりと現れていた。話の半ばを過ぎて、その大意を掴んでからは、口を固く閉じ、額の皺は消え、顔全体晴れ晴れとなる。彼はもう何と答えたらよいかを知っているのだ。もし反意の質問で言葉に述べたのと別の意味が隠くれていると、川路は思わず微笑を浮かべるのであった」

プチャーチンは皇帝へ送った上奏報告書に「全権筒井肥前守と川路左衛門尉は、その考え方、表現、我々に対する丁重さと慎重さに「おいて教養あるヨーロッパ人とほとんど変わらない。ことに川路は、その鋭敏な良識と巧妙な弁舌に「おいて、ヨーロッパのいかなる社交界にだしても一流の人物たりうるであろう」と記している。
佐藤雅美著:立身出世:官僚川路聖謨の生涯より

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