自爆テロの心境など理解できるものかと思いましたが、下記の映画「パラダイス・ナウ」によってならば実感できるものでした。
イスラエル人の人もみて自爆テロの苦悩がわかってこれで良いのかと動揺したそうです。
パラダイス・ナウ http://www.uplink.co.jp/paradisenow/
「物事を“邪悪”と“神聖”にわけるのはナンセンスだ。私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです」
ハニ・アブ・アサド(監督
脚本はパレスチナ人のハニ・アブ・アサド、プロデュサーがイスラエル人もヘンガメ・バナイ・アミール・ハレム他2005年;2006年題63回ゴールデングローブ賞最優秀外国語作品賞
自爆テロが続くパレスティナ。自爆攻撃者に選ばれた若者2人が決行に向かうまでの48時間。
親友である2人は自動車修理工場で働いていた。
主人公のサイード(カイ・ナシェフ)とその親友のハーレド(アリ・サリマン)はそんなある日、サイードは車を修理にもってきた美しい女性スーハと出会い、互いに惹かれ合う。ヨーロッパで教育を受けたスーハは、殉教者であった父の故郷ナブルスで一人暮らしを始めているが、ヨーロッパとパレスチナの社会の違いに戸惑いと苛立ちを感じている。主人公と友のハレードはそんな退屈で希望のない日を暮らしているある日に以前から願っていた自爆テロに選らばれたのだ。自爆テロに選ばれたことは大変な名誉であったが、国境をイスラエル側の手引きで越えたと思ったら、手引きがお金だけもらって(後払いになっているそうですが)何らかの理由があったのか、最初からそうだったのかわからないが、裏切りにあって急遽自国に引き返す。(両国にはこの浮世を裏切りによって生きざるを得ない人々がいる)
この映画をみていると、主人公と同じ環境に追い込まれてゆく。一旦とん挫したので、自爆テロの怖さとかはちょっとした弾みで逃げ帰りたい気持ちになってしまう。軍事力の弱いパレスティナにあっては自爆テロは意趣返しにはなっても、逆に強大なイスラエルからの報復の連鎖が続くだけである。侵略してきたイスラエルは歩みよりを見せることはけしてない。
どっちにころんでも、自爆テロによるしか抵抗の方法がないやるせなさ。いったん自分に装着された爆弾は外せない。2人はスーハの説得で自爆テロの虚しさも分かりかけてきている。母親は主人公には何も言わないが、主人公の父はパレスチナを裏切たことで処刑されたことは分かっていて、やりきれない少年期を過ごしている。結局、友人はともかく、主人公はイスラエルの首都テルアビブに戻って、常に自爆するためのスイッチ紐に手をかけ続ける決心もついて、あちこち探してバスにのった。そこに乗り合わせたのが目標とする大勢のイスラエル兵士だった。兵士たちもまさか自爆テロが一緒に乗り込んでいるとは思わないで・無言でバスは走ってゆく。見ていてどっちにころんだとしても早くこの緊張から解放されたいとおもう。主人公は神のご加護を自分に故意にも言い聞かせながら、紐を引っ張る。爆発で画面は空白な画面になってENDを迎える。映画を見終わっても観客はしばらく立ち上がれない。誰かに何かいわずにはおれない心境になってしまう。
自爆攻撃について、どのようなリサーチをしましたか?
自爆攻撃を実行した人にはもう話を聞けませんから、自爆攻撃者の遺族、自爆攻撃を計画するグループ、イスラエルに収容されている自爆攻撃に失敗した人を弁護する弁護士に会って話を聞きました。また、他の文化も参考にしようと、日本の神風特攻隊の残した手紙を読みました。
リサーチを通して感じたことを教えてください。
私の調べたところによると、自爆攻撃をした者の遺族は自爆攻撃で亡くなったことを大きな損失だと感じています。しかし、誰も無駄死にしただなんて思いたくないので、社会の為に死んだと口にします。しかし、心の内はきっと違うでしょう。神風特攻隊の手紙は、自爆攻撃者と非常に似ている部分がありました。「良いことをするんだ、お国の為だ」と自分に納得させようとする文が多く、しかし、文字の隙間に恐怖だとか悲しみといった、人間らしい面が感じられました。そうしてはっきりしたことは、ひとつとして決まったタイプはなく、誰一人としてステレオタイプな型にはまっていないということです。
なぜ彼らは自爆攻撃をするのだと思いますか?
パレスチナの若者は占領下に生まれ、毎日のようにイスラエルの軍隊に侮辱を与えられます。希望もなく、自分達にできることは何もない、そんな無気力な若者が自爆攻撃をするのです。自分は臆病で、無力だと感じている若者に、唯一できることが自爆攻撃だと思い込んでいるのです。自分が死ぬことで敵を倒し、英雄になれる、そこで初めて生きている実感がもてるのでしょう。
自爆攻撃者の運命についてどうお考えですか?
この映画で描きたかったのは、信仰により受け入れてしまう運命というものです。Destiny(運命)とFate(信仰)は似ている単語ですが、destinyは「運命を自分で変えていくこと」、Fateは「そのまま受け入れてしまうこと」を表します。サイードとハーレドの場合、最初は組織の人間に指名されそのまま受け入れましたが、最後は結果的にそれぞれ自分で決断して行動しました。例えばサイードは、ハーレドとはぐれて単身イスラエルに向かった時、バスを吹き飛ばすチャンスがあったのにそうしなかった。子供たちを道連れにできなかったのです。でも、最後のシーン、バスは兵士でいっぱいです。兵士は自分と同一視できたのです。ここに、彼の意志と主義があります。全ての人間にとって最後に死ぬということは変えることのできない運命ですが、しかしその過程は人それぞれで変えることができるのです。
イスラエル人の人もみて自爆テロの苦悩がわかってこれで良いのかと動揺したそうです。
パラダイス・ナウ http://www.uplink.co.jp/paradisenow/
「物事を“邪悪”と“神聖”にわけるのはナンセンスだ。私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです」
ハニ・アブ・アサド(監督
脚本はパレスチナ人のハニ・アブ・アサド、プロデュサーがイスラエル人もヘンガメ・バナイ・アミール・ハレム他2005年;2006年題63回ゴールデングローブ賞最優秀外国語作品賞
自爆テロが続くパレスティナ。自爆攻撃者に選ばれた若者2人が決行に向かうまでの48時間。
親友である2人は自動車修理工場で働いていた。
主人公のサイード(カイ・ナシェフ)とその親友のハーレド(アリ・サリマン)はそんなある日、サイードは車を修理にもってきた美しい女性スーハと出会い、互いに惹かれ合う。ヨーロッパで教育を受けたスーハは、殉教者であった父の故郷ナブルスで一人暮らしを始めているが、ヨーロッパとパレスチナの社会の違いに戸惑いと苛立ちを感じている。主人公と友のハレードはそんな退屈で希望のない日を暮らしているある日に以前から願っていた自爆テロに選らばれたのだ。自爆テロに選ばれたことは大変な名誉であったが、国境をイスラエル側の手引きで越えたと思ったら、手引きがお金だけもらって(後払いになっているそうですが)何らかの理由があったのか、最初からそうだったのかわからないが、裏切りにあって急遽自国に引き返す。(両国にはこの浮世を裏切りによって生きざるを得ない人々がいる)
この映画をみていると、主人公と同じ環境に追い込まれてゆく。一旦とん挫したので、自爆テロの怖さとかはちょっとした弾みで逃げ帰りたい気持ちになってしまう。軍事力の弱いパレスティナにあっては自爆テロは意趣返しにはなっても、逆に強大なイスラエルからの報復の連鎖が続くだけである。侵略してきたイスラエルは歩みよりを見せることはけしてない。
どっちにころんでも、自爆テロによるしか抵抗の方法がないやるせなさ。いったん自分に装着された爆弾は外せない。2人はスーハの説得で自爆テロの虚しさも分かりかけてきている。母親は主人公には何も言わないが、主人公の父はパレスチナを裏切たことで処刑されたことは分かっていて、やりきれない少年期を過ごしている。結局、友人はともかく、主人公はイスラエルの首都テルアビブに戻って、常に自爆するためのスイッチ紐に手をかけ続ける決心もついて、あちこち探してバスにのった。そこに乗り合わせたのが目標とする大勢のイスラエル兵士だった。兵士たちもまさか自爆テロが一緒に乗り込んでいるとは思わないで・無言でバスは走ってゆく。見ていてどっちにころんだとしても早くこの緊張から解放されたいとおもう。主人公は神のご加護を自分に故意にも言い聞かせながら、紐を引っ張る。爆発で画面は空白な画面になってENDを迎える。映画を見終わっても観客はしばらく立ち上がれない。誰かに何かいわずにはおれない心境になってしまう。
自爆攻撃について、どのようなリサーチをしましたか?
自爆攻撃を実行した人にはもう話を聞けませんから、自爆攻撃者の遺族、自爆攻撃を計画するグループ、イスラエルに収容されている自爆攻撃に失敗した人を弁護する弁護士に会って話を聞きました。また、他の文化も参考にしようと、日本の神風特攻隊の残した手紙を読みました。
リサーチを通して感じたことを教えてください。
私の調べたところによると、自爆攻撃をした者の遺族は自爆攻撃で亡くなったことを大きな損失だと感じています。しかし、誰も無駄死にしただなんて思いたくないので、社会の為に死んだと口にします。しかし、心の内はきっと違うでしょう。神風特攻隊の手紙は、自爆攻撃者と非常に似ている部分がありました。「良いことをするんだ、お国の為だ」と自分に納得させようとする文が多く、しかし、文字の隙間に恐怖だとか悲しみといった、人間らしい面が感じられました。そうしてはっきりしたことは、ひとつとして決まったタイプはなく、誰一人としてステレオタイプな型にはまっていないということです。
なぜ彼らは自爆攻撃をするのだと思いますか?
パレスチナの若者は占領下に生まれ、毎日のようにイスラエルの軍隊に侮辱を与えられます。希望もなく、自分達にできることは何もない、そんな無気力な若者が自爆攻撃をするのです。自分は臆病で、無力だと感じている若者に、唯一できることが自爆攻撃だと思い込んでいるのです。自分が死ぬことで敵を倒し、英雄になれる、そこで初めて生きている実感がもてるのでしょう。
自爆攻撃者の運命についてどうお考えですか?
この映画で描きたかったのは、信仰により受け入れてしまう運命というものです。Destiny(運命)とFate(信仰)は似ている単語ですが、destinyは「運命を自分で変えていくこと」、Fateは「そのまま受け入れてしまうこと」を表します。サイードとハーレドの場合、最初は組織の人間に指名されそのまま受け入れましたが、最後は結果的にそれぞれ自分で決断して行動しました。例えばサイードは、ハーレドとはぐれて単身イスラエルに向かった時、バスを吹き飛ばすチャンスがあったのにそうしなかった。子供たちを道連れにできなかったのです。でも、最後のシーン、バスは兵士でいっぱいです。兵士は自分と同一視できたのです。ここに、彼の意志と主義があります。全ての人間にとって最後に死ぬということは変えることのできない運命ですが、しかしその過程は人それぞれで変えることができるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿