2008年8月14日木曜日

倒幕運動につながる


2000ピクセル以上のフリー写真素材集より

長府藩にお預けになった赤穂浪士10人が屋敷の裏門より送りこまれた時、藩主
毛利甲斐守綱元は在府中だった。ただちに屋敷内の長屋を急づくりの牢屋に仕立てて義士たちを入れ、あくまでも罪人として収監した。最初は粗末な一汁一菜だった。
同じ義士を預かった熊本の細川藩は、義士を武士の鑑として、優遇し、彼らを牢ではなく、藩邸の座敷に収容した。毎日の御馳走攻めに義士たちが音をあげたという。それに比べて毛利氏のひどい仕打ちが江戸庶民の不評をかった。
長州藩の義士たちに対する冷遇を後世におよんでも侮蔑をもって語る史家が少なくない。しかし長府藩みずからが、その状況を詳細な事実として記録したことの意味、そして2百数十年にわたる面従腹背の姿勢が倒幕運動となって噴き出したことに思いをトどかせる人は少ないようだ。
関ヶ原で西軍の総大将となり、敗戦後徳川に煮え湯を飲まされたことへの屈折と卑屈な体質が、長らく毛利家の対幕府姿勢に反映したのである。
幕府に向ける怨嗟(えんさ)の視線が、幕府の警戒心を刺激した。ささいなことに因縁をつくられ、」とりつぶしになるのではないかという秘かな恐怖心を毛利氏はいつも漂わせていた。
 たとえば: 浪人(義士のこと)に爪楊枝を与えてよろしいか
       毛抜きを所望しているが与えてよろしいか
       扇を所望しているが与えてもよろしいか
       発病したとき医者に診せてもよろしいか
古川薫:斜陽にたつ(乃木大将について)より

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