2008年8月21日木曜日

撃墜王




最近は夜に窓はあけていますが、扇風機は止めても睡眠できます。あの当時のイラクはどんな気候だったのでしょうか?

ラガ-外交官奥田克彦は平和のために懸命の努力を重ねていました。彼がイラクで銃弾に斃れる7日前、つまり2003年11月22日の臨時代理大使、上村司が妻にメールで送っていた。なぜか第2次世界大戦時の「撃墜王」に関する内容だった。
日本にはラバウル航空隊の「西沢広義」「坂井三郎」「笹井醇一」あるいは加藤隼戦闘隊の「加藤建夫」といった戦闘機のエースパイロットがキラ星のように並んでいた。一騎当千というやつだ。
米軍と空中戦になる。最初の頃は日本の無敵のエース機やベテラン機が米軍機をそれぞれ10機、20機と撃ち落としてゆく。
ただ米軍はチームとして戦う。つかれたチームは休ませ、ルーキーであっても、新手のチームを次々に繰り出すのだ。いくらベテラン機であっても不覚をとることはある。1回の戦闘で米軍機10機を落としても、日本は1機位は食われる。

日本と考え方が根本的に違うのだ。30機撃墜されると、50機があらたにやってくる。空中戦が何度続くと、さすがに日本のエースパイロットにも疲れが出てくる。集中力が薄れる。腕の差があても、ふとしたことで、敵機の銃撃に被弾してしまう。米軍のパイロットは順次交代するのに、日本はエース機を頼り、出撃を重ねる。日本の撃墜王は傷つくまで帰れない。日本がまけたのは、こんなシステムのせいではなかったのだろうか。60年経っても、日本の精神構造はさほど変わらない。欧米の国でイラクの応援組織に派遣されているスタッフは皆ながくても半年で交代している。
「奥はそういう意味で“撃墜王”ですよ、日本のエースですよ。だれも責任とらないけれど、奥も井上疲れていたんですよ」
イラクの生活での緊張は想像を超えるものだった。昼間は車で走り、夜はパソコンで情報整理。分析、連絡をする。張りつめた状態が続く。疲れているが、頭が冴えて眠ることができない状態にある銃撃事件だった。
日本を想い、イラクを翔けた―ラガー外交官・奥克彦の生涯 :松瀬学著より

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