2008年8月16日土曜日

現状認識

2000ピクセル以上のフリー写真素材集より
オリンピックの女子サッカーの中国の応援は日本が2点いれたら、もう声援も希薄で、帰路につくという点は全くドライでしたね。
そういう意味では現実的で、戦争に遭遇しても、相手が大きいとか強い場合はじっと我慢するのでしょうか?文化大革命から想像するとそういうふうに なりそうです。日本人の場合華々しいところに目が奪われてしまう点があります。子供が褒められて嬉しがっているようです。
今日も長くなりました。私は自分の家で毎日新聞をとっていながら、一度もこの夕刊に掲載された乃木将軍について書かれた「斜陽に立つ」を読んだことも、掲載されていることもしらなかった。


旅順港の攻略
日本の初戦当時の連隊は36門の砲をもつのに、本命のクロポトキンとの戦にそなえて控える作戦は一日5発の砲弾しか許されなかった。
児玉源太郎総参謀長が直接指揮をとるようになり、28サンチ砲に装てんする砲弾はウソのような気前のよさだった。その後の両軍の肉弾戦はすさまじい限りであった。(無謀です)

水師営の会見1905年[明治38年1月1日にステッセル中将は降伏した。
投降した旅順要塞司令官ステッセル中将が白馬に乗り、陽光を跳ね返す原野の雪を蹴って、水師営にやってきたのは1月5日の朝だった。第三軍司令官乃木希典は,沿道に隊列を作って彼を迎えることを禁止した。敗軍の将を見世物にすることを避けようとしたのである。
午前11時、砲弾で破壊した民家の前庭で希典とステッセルは、互いに微笑しながら固い握手を交わした。このときステッセルと同行の副官たちに帯剣を許し、軍人に対する礼をもって迎えたので彼らの感激はひとしおだった。そのことにたいする謝辞をステッセルが述べた。彼が敗軍の将に敬意をもって接し、武士として遇しないはずがなかった。
敗軍の将ステッセルに示した乃木希典の紳士的な応対は各国から集まってきている報道陣をいたく感激させた。たちまち欧米各紙を通じて世界にひろまった。(格好しいの面)
日露戦争には観戦武官もきており、アメリカ・スペイン戦争で武功のあった米国陸軍の中将アーサー・マッカサーが混じっていた。彼が副官としてつれてきていた士官学校を卒業してまもなく、陸軍中尉は息子のダグラス・マッカサーである。親子して乃木希典
の写真が家に飾ってあったという。
マッカサーはトルーマン大統領と意見があわず1951年4月解任され帰国する。
日本を去る日赤坂乃木宅のそばにアメリカハナミズキの苗を植えた。今やひとかかえもある大木になって乃木をしのぶ緑陰を作っている。

古川薫氏はいっている
人類の歴史とは戦争が巨大な徒労な凄惨な過程を縫い合わせしたのではないかと
まで痛感した。生まれたさせられた所与の環境とある時代との遭遇が人間をいかに動かしていくのか。あるいはそれに挑戦する人の運命を見定めようとするのが、歴史小説の眼目ではないかと語っている。
対露宥和ロシア方針の伊藤博文は日本の実力をよくわきまえていて反対していた。
東郷元帥はバルチック艦隊を撃破し、セオドア・ルーズベルト大学で同窓だった金子堅太郎の努力でポーツマス講和会議となり、全権の小村寿太郎は日本の要求が突っぱねられ、敗戦国の譲歩を重ねて、ポーツマスで賠償金の撤回、樺太割譲は半分とすることとなり、悲痛な屈辱の光景となった。

日本の戦力が尽きている現実をしらない民衆3万人が日比谷公園で気勢をあげた。(正確な報道がない、弱い面の報道は国を困らせる?)
小村寿太郎に全権を与えているが、上層部は相談されても屈辱的な交渉になると予想して、答えを出せないからそうしたのではないか。又日清戦争で勝利し、こんどの戦争も、日露戦争も国力の実勢をしらない戦をする。現実認識を疎かにして感情的な戦が日本では行われることが繰り返されていると思えてならない。

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