2009年5月11日月曜日

陶磁器は世界を翔ける


昔の交通手段はたいしたことがなかったのに、その行動は世界中に届いていた。

学習院での学習
東アジアの海とシルクロードの拠点;福建:水中考古、陶磁器、茶文化
「萩焼と私」新庄貞嗣:陶芸家・萩焼助右門窯14代当主

今回は陶芸家の話です。
萩焼は1604年李勺光という人を秀吉がつれてきて長州に預けていた。その人の弟子であるようです。
家系図は存在して14代というのが分かる。
薩摩や佐賀でも朝鮮から来たようなとがあったが、ここでは相当優遇されていたようだ。
下関と釜山は5時間、往復10000円の船賃、博多と釜山の高速では2時間、下関起点で東京から円を描くと、北朝鮮のピョンヤンや中国のチンタオや上海に相当する距離だと指摘されてびっくりした。
この地域では陶土の種類も3つ、釉薬も長石、藁灰、土灰の3つでかなり限定されていたが、この配合割合や窯の温度(酸化の焼成と還元法煙も出る程に燻らす方法の2種類※)でかなり変化を生むことができる。
 ぶらぶらしているので親が心配して、京都の窯に預けてくれた。東京から1きに田舎の萩ではなく、その中間点であるのも気に入った。萩の作陶は土練、から施釉まで全工程を一人でやるが、京都の作陶は分業制で、窯以外のところで絵付けなどそれぞれ分かれているのは織物とおなじだった。京都では染料に灰は不要、陶芸には必要など、分業することで、作業が効率的でもあり、純度の高い原料が入手できることも分かった。
萩では粘土の原料を採掘する人はいたが、この粘土と釉薬をあつかうところはなかった。
赤松を燃料としていたが、中国ではこの赤松がなくなると、10年毎に窯も移動した。萩焼きの場合は陶土が少なかったり、作陶家を制限したのかよくわからないが、その場でじゅんぐり伐採してくらいだったので移動までの必要はなかったようだ。山肌を伐採して生えてくるのが松で、岩のところにも松が生える強さもわかった。
各地の6人が集まって作陶したが、ほとんど同じような作陶かに思われたが、じっくりそれぞれの作業をみていると、微妙ではあるが違いがあり、それを工夫してみると、上記の作陶の原料が少くても、バラエティに富んだものが出来そうだということが分かって、家業に専念できるようになり楽しかった。富士山に登るのに、いろいろな登山口があるのと同じだった。

陶磁器がシルクロードによって、運ばれその美を求めてあの交通手段の乏しいときに、世界各地に伝播したのは感極まるところであるそうです。
同じ土と釉薬でありながら、温度によって青磁にも象牙色にもなる。本当に微妙である。釉薬で鉄の魅力は陶磁器にすさまじいくらいの色を提供する。
2005年に韓国で米国、ドイツ、アイルランド、オーストリア、中国の陶芸家があつまって、それぞれの粘土や窯を設置して作陶をはじめた。これも面白い体験だったそうです。
陶芸2種類:陶芸で作品を焼くとき、大きく分けて、”酸化”と”還元”という二つの焼成方法があります。

酸化とは、酸素が十分に供給された状態で焼く方法です。

還元とは、酸素の供給量をしぼり、不完全燃焼の状態で焼く方法です。

還元で焼く場合も、温度を上げるときは、もちろん酸化状態なのですが、釜の温度を下げる時に酸欠状態にして、還元をかけて行きます。

たとえば、木材をそのまま野焼きしたら、すべて灰になって跡形も無くなってしまいますよね。これが酸化焼です。ところが、炭焼きのように、窯に蓋をして酸欠状態にすると、灰にならずに炭が残りますよね。これが還元焼です。

木材の場合、灰になるか炭になるかの違いが起こるのですが、陶芸でも、こんな感じで、酸素の供給(風の入れ)具合で、出来上がった作品の風合いがすごく変るんです。それは、酸欠状態にすることで、酸素と結合する所としない所が生じ、それが釉薬の発色を変化させるからです。

それは強い還元をかけることで、より複雑な景色の作品を生み出したかったからなのだそうです。

東アジア海文明
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~asia-off/

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