2009年5月13日水曜日

アンネの日記


アンネ・フランクが13歳の時の話で、私が生まれた翌年の話で1942年の同時代のことです。不思議な緊張ある臨場感があるような気がします。

こんな話を読んでいると、本来は屈託のないアンネではあるが、不吉な予言が現実となって迫ってくる。母よりも慕わっていた、生き残ったオットーという父がこれを読んだときにはどんな気持ちだったことだろう。

彼女(アンネ)はケーシング先生というお年寄りの数学の先生に教わっていた。以前から彼女がおしゃべりをしすぎるということでご機嫌をそこねていた。そうした折に宿題として「おしゃべり屋」という題で作文を書くように言いつけられた。

とりあえずその題をノートに書とめ、あとはなるべく、おしゃべりを慎むように努めました。文字を大きくして単語と単語の間を広くあければ、誰だってくだらない短文位は書けるだろう。ただ問題なのはおしゃべりの必要性を疑問の余地ないまでに立証してみせることだ。思案に思案を重ねたあげく、ふいに妙案が浮かんだので早速割り当て分の3ページを埋めてすっかりいい気分になっていた。

私の論点は、おしゃべりは女性の特性であって、できるだけ慎むように努力することはするけれど、おそらくこの癖はけっして直らないだろうというのも、うちの母も私に劣らず、いやひょっとするとわたし以上におしゃべりだから、遺伝ではどうすることもできない。これを読んで先生はついに笑い出した。それであいかわらずおしゃべりはやめなかったので、今度は「直らないおしゃべりの癖」を書いて出すとその後の2回の授業では注意をうけませんでした。

そうはいうものの、3回目には【があがあと“ぺちゃくちゃおばさん”は言います】の題を出された。これでクラス中爆笑の渦だった。私もしかたなく笑った。この問題は自分としてはもう種切れだわとおもった。ところが親友で詩の上手なサンネが手伝ってくれていうには、先生は私をからかおうとしている。そうならば先生をクラス全員の前で笑い者にしてしまおうと考えた。

詩は完成した。3羽のあかちゃんアヒルを育てている、おかあさんアヒルとおとうさん白鳥がいました。あかちゃんがあんまりにも騒がしくおしゃべりしたために、とうとうおとうさん白鳥からくちばしでつつき殺されてからしまいますという内容だった。幸いにも冗談が通じたらしく、みんなの前で注釈をつけて読み上げ、他のクラスでも読み聞かせた。それから余分な宿題もなく、先生はいまでもその詩を冗談の種にしています。・・・・と書いています。

彼女だったら芝居の脚本をかいてもうまかったろうなと思います。人物観察もするどく、的確で、冷静に13歳でよくもこんなに描けたものだと感心してしまうのでした。

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