2009年7月21日火曜日

健常なうちに



介護施設の理事長にお話を伺いました。

一般の人にとって、介護状態のことは、体験しないと分からないのが通例ですが、健常な内に先々の準備をしたらよいものかでしょうか?果たしてどのようなものでしょうか。

まず60、70、75歳の節目のときに、じっくりご自分の末期を見据えて、こうしたい事柄をまとめおき、それを毎年に正月やお盆のときに顔を合わせたときに話し合い、修正や加筆して親の自分としては、こう思うことを、子供さんにジックリと受け止められてもらえる機会を持ちたい。
 親の生き方、今までも、これからもどのような人生迎えたいかを披露する。親が介護状態になってから、親の考え方を初めて知るようになったという方もあるようですが、自分の親らしく尊重できるような関係でありたい。
 こういう関係は、本当はもう子育てから始まっている訳なのですが、親の思いは兄に偏っていた、というふうに感じていた妹さんとの相談があっても、親をどちらの側で介護するかが定まらず宙に浮いた事例もありますし、その逆で、兄弟の仲がよく、結婚したあとでも、それぞれの夫婦が共に介護を交替する、分担し合える家族になっていて、それぞれのお嫁さんいわく、親御さんの子育てがよかったからという印象をしみじみ語っていました。
男性の場合、それは大事に育てられていた場合に、一方通行の「してもらう」習慣ができていて、今度は介護する側にまわると、親の老醜はみたくもないとソッポを見ている方もいます。むしろ一人っ子の場合にこのような軋轢はないようです。
親子関係は親の思惑を先にして、「この学校に入りなさい」という場合と、逆に子供に干渉しないで、本人の意志を尊重されて育った子供さんでは、親の老後についての共感度合いが随分違いますね。
 日本人の場合、最後のことを想定すること自体、マイナスイメージで避けてしまう。
中村先生という方の勧めは、生きているときに、お棺に入って感触を確かめる位実践派なのですが、そのような心境ともなると、己の生き様も語れるし、延命治療として、人工呼吸やイロウなどの医療行為はもう必要ないというように終止符を打ちたいのに、自分の意志や判断をこえないようにしてほしい旨の尊厳死を文書とし、署名捺印しておくことは、いざというときの書面として必要なのです。家族の経済的・精神的負担の軽減にもつながることでもあるのですが、書面でないと、医師と話し合いをもっても、実の子供といえ声を大にしても、患者本人の意思としては認められないという延命措置になってしまうのです。
そういう延命措置をしなければ、人間には自然に備わっているといわれる脳内モルヒネによって痛みもやわらげられ、朽ちる枯れ木のごとく最後を迎え、世話になった方々に「有難うございました」といって目を閉じることができることでありたいものです。
親子のコミュケーションが行われ、そうした明確な意志があれば、自宅で安らかに死を迎えたいということも可能で、西東京市においては往診、訪問看護、最後の見取り、をしていただける心強い応援体制があります。それぞれの人にはそれぞれの最後の迎え方があるべきで、望めば自分を尊重した生き方が出来るということをうかがいました。

0 件のコメント: