2010年5月24日月曜日

マラソンの瀬古選手と中村清監督


おはようございます。わが住居は西武新宿線東伏見駅には早稲田の運動場があり、地元の稲門会が瀬古利彦を招いての講演会があったが、この人は落語の素質が十分ある人で絶えず
笑いを呼んでいました。

≫生年月日:1956年7月15日
≫出身地:三重県桑名市
≫主な経歴:四日市工業高校~早稲田大学~エスビー食品

野球部に所属していた中学時代、三重県中学春季陸上2000mで優勝。高校進学後に本格的に陸上を始め、2年、3年のインターハイで800m、1500m の2種目連覇を飾る。

早稲田大学で中村清監督の下、マラソンを始め、卒業後はエスビー食品に入社。福岡、東京、びわ湖、ボストン、ロンドン、シカゴといったビッグレースで優 勝。15戦10勝の生涯成績を残した。

現在はエスビー食品スポーツ推進局の局長を務める傍ら、日本オリンピック委員会理事、日本陸上競技連盟理事の要職も担っている。
●六代目・円楽披露パーティーマラソンの元五輪代表の瀬古利彦氏(53)も駆け付け、そっくりツーショットを披露し た。鏡抜きで呼び込まれ、会場は大爆笑。 マラソンの瀬古さんが楽太郎(円楽)氏に似てるというのは昔から言われてましたね
●浅田真央3.5回転、瀬古選手も地球を3.5回転は14万キロ、ハンマーの室伏選手は4回転、どの回転が優れているか、練習の距離や回転数では相当の努力をしているので、優劣はつけられない。
●早稲田の試験に落ちたので、米国留学で、南カルフォルニア大学に1年(実質10月)、寂しくて、面白くて、食べ過ぎて58kが68kgになっていた。
●箱根駅伝で、東洋大学の柏原選手の坂上りの驚異的な記録で優勝したが、この効果などがあって、東洋大学の入学試験では1万人増加、一人3.5万円の試験料で3億5万円の収入増になる計算だそうです。だから大学によっては入学金、授業料免除に加え、生活資金も出してくれるところもあるそうです。

●瀬古選手の恩師中村清が再度乞われて早稲田陸走部監督に就任したときは、ダラけたクラブだったので、当時の早大は不振の極みだった。まるで、今 の日本の縮図だ。就任したときに中村監督は以下のように部員に語りかけた。一生懸命指導するからついてきてほしい、と。ところがそれを聞いた部員たちの反 応は、馬鹿にしたゲラゲラ笑いだったそうだ。そこで中村はこう続けた。
 「中村は昔は随分、後輩を殴った。しかしこれからは、めったに鉄拳制裁はしない。ただ、どうしても1つ2つ殴りたくなったら、まず自分自身を十も二十も 殴ってからやる。これ、この通りだ」と言うなり、中村は自分の顔を力まかせに殴り続けた。唇が切れ、血が流れ出した。「部員たちは、まるで狂人を見るよう な目つきでこっちを眺めていた」とある。
 あるいは、
 「お前たちがどんなに苦しくても頑張る、という情熱を取り戻してくれるなら、俺はなんでもやる。草を食え、砂をなめろというなら、その通りにする」と 言って、地面の草を引き抜いて土といっしょに口に入れた。中村は当時、血圧250、血糖値300という半病人(糖尿病)だったのに、部員の練習の間は、た とえ土砂降りの雨でも雪が降っても、4時間5時間でも立ったまま練習を見続けたそうである。
 箱根駅伝では、選手と伴走する車の上から、ずっと「都の西北」を歌い続けることもやっていた。その映像をテレビで見たときは感動したものだった。
 まさに情熱の人であった。わが流派の最高幹部は中村清以上の情熱も理論もある方ではあるが、今日のところは中村だけに話を絞らせていただく。私も中村の 指導のあり方はずいぶん勉強になった。具合が悪くて脂汗が背中を流れるときでも、たった一人の道場生の指導のために、歯をくいしばりつつ、しかし平然とし て指導をやったものだったが、これは中村清監督を見習ってのことでもあった。
 中村清は言う「強制からは、情熱は生まれない。情熱の原点を与えるためには、何よりも監督と部員の心が彼我一体となることが肝要なのだ、という信念が、 私を支えた」と。さらに「教育とは、継続である。根くらべである。1年たち2年たつうち、荒廃したグランドは、昔の清らかさを取り戻した。部員たちの眼が 澄んできた」
 そこから早大が駅伝やマラソンに往時の迫力を蘇らせ始めたというのだ。
(中村清監督の指導者魂:
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b9bea74e670afe7760283c7aac017a8e
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