2010年5月6日木曜日

“入亜脱欧”した若き英国騎士


おはようございます。テレビを見ていたら、行楽客へのインタビューで「今年は冬と夏があって春がない」という人がいましたが、もう春の行方を指名手配ても駄目でしょうか。
気まぐれだからフラリ戻ってくることもあるのでしょうか。衣装箱の整理が何時になったら出来るのでしょうか。
 アイルランドの人には心情的に通うものがありますね。

観光文化:VOL184武士道で“入亜脱欧”した若き英国騎士
旅行ジャーナリスト沢木泰和

忘れられたジャパノロジストはフランシス・ブレンダリー(FRANNCISBrinkley11841-1912)は幕末に来日し、アイルランド生まれの英国人。.
明治の日本人が「脱亜欧入」の態勢をとるのと正反対の“入亜脱欧”の姿勢を貫きとおした。
肩書きは在日英国公使館補および守備隊長、お雇い外国人、日本海軍砲術学校主任教授、工部大学校教師、英字新聞「ジャパン・メイル」発行人、日本郵船会社顧問、『ロンドン・タイムス』通信員、さらには明治政府アドバイザー、日本美術評論家など。在日の外国人仲間からも評価されず、浮いた存在だった。
古い資料のなかから、この人の風化しそうな彼の足跡をたどる。
生まれはアイルランドのダブリンにほど近いミューズ地方に生まれる。アイルランドは政情悪化して、飢饉つづき、新天地・米国を目指す人々が続出する暗い時代です。ダブリンのトリニティ・カレッジなどを学んだ後、英国ロイヤル・ミリタリー・アカデミーで砲術を習得します。その後従兄である香港総督リチャード・マグドネルの副官で香港に駐在します。
その後長崎で彼はサムライの決闘を観てしまいます。勝った武士は自分の羽織を死者に覆い、ひざまずいて合掌します。実戦経験のない26歳の彼はこの光景は武士道への強い関心を強める発端になります。そして47年後の乃木将軍の殉死、外電は「狂死」と打電するや、彼ブリンクリーは「これぞ武士道の鑑」と欧米に発信した。
1910年発行の『ブリタニカ』で彼は「サムライは本質的に禁欲主義で、自制を存在の規範としており、苦しみを勇敢に耐えることを徹底的に実践するので、自分自身の肉体に最も恐るべき苦痛を何のためらいもなく加えることができる」

 ブリンクリーが育った時代に産業革命が起こり、騎士道のシンボルである馬が必要なくなります。乗馬してこその騎士は、国益を背に植民地での統治と金儲けに力を注ぎます。なので同じアイルランド生まれのオスカ-・ワイルドらによって「新騎士道」が論じられる有様です(この辺はよくわかりませんが・・・)
一方日本では、江戸の泰平天国で刀を忘れていた武士たちが尊王攘夷をめぐって武士道に目覚めます。こんな対照が騎士の家系にある若きブリンクリーに「美しい国ニッポン」として焼きついたようです。

0 件のコメント: