2010年5月3日月曜日

枯葉の効用


おはようございます。「和本というのは鳥のように軽いと感じることがある。」とあるが、我が家の仏壇にあったお経はまさにそうでした。和紙は丈夫で、軽いということなのですね。

書を読んで羊を失う:鶴ケ谷真一より
「枯葉」
古い和本をひるがしていると、ときおり本の間に木の葉が挟まれてのをみつけることある。
どれほど古いものなのか、手にした葉は乾ききって、もう元の色をとどめていないが、その輪郭をみれば、これは銀杏の葉、これは朝顔の葉というように見わけはつく。本に木の葉を挟んだりするのは、べつに珍しいことではない。名勝の地を訪れたおり、庭園に落ちているきれいな一葉を拾って、ささやかな記念としたり、落葉の時季に、まるで象牙に黄をにじませたような銀杏の葉や、窯変の色を思わせる紅葉の葉を手にして、読みさしの本の間にはさんだりするのは、よくあることだろう。たまたま開いた本のあいだに、色あせた一葉をみつけて、かすかになった記憶をしばしたどったりすることもまた・・・。
一部省略
それにしても、なぜこんなふうに、葉を執拗にはさみこんだりしたのだろうという疑問は、しばらく胸にわだかまっていたが、風に飛び去った木の葉のように、それもいつしか忘れてしまった。もう何年も前のことだ。
ところが最近、たまたま荷風の隋筆『冬の蠅』所収の「枯葉の記」を読んでいて、次のような一節にいたったとき、図らずも、その疑問は氷解したのだった。「古本を買ったり、虫干しをしたりする時、本の間に銀杏や朝顔の葉の挟むんだままに枯れているのをみたことがある。いかなる人が、いかなる時、蔵書を愛する余りになしたことか。その人は世を去り、その書は転々として人の手に渡って行く,紙魚とともに紙よりも軽く、窓の風に翻って、行くところを知らない。」そうか、あれは紙魚を防ぐためのものだったのか。そんな自明とも思われることになぜ気づかなかったのか、我ながら不思議なほどだった。

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