2010年2月18日木曜日

無精ひげ先生の授業


おはようございます。窓の外は銀世界、ボタン雪が音もなく降っています。車も綿帽子をかぶっています。通学の子供がどのような反応をしますものでしょうか?
オリンピックのカーリングの1ミリ差、スケートの100分の1秒差などの話でもするのかしら。
続日本一の私の先生:青春出版社〔編〕:入選より
学級芝居:森田真由美(東京都 会社員 .39歳)
変な先生がいた。ボサボサの髪、お決まりのように口の周りに浮かべた無精ひげ、今では見かけなくなった分厚いレンズの眼鏡。その先生は父兄会の面々が顔をしかめるほどだらしない風体をしていた。小学4年のクラス替えのとき、3年生まで教頭でもあり、父母の信頼の厚い石田先生が担任だったのでがっかりした。
変な先生は新学期で、席が決まらない状態で適当に座っている生徒たちに言った。
「席は決めないから、毎日好きなところに座れ、ただし前の日に座った席には座らないこと」「えっと!」と私たちは一斉に声をあげた。ぶつぶついいながらも従うしかなかった。
今度は各委員を決める段階になった、「みんなやりたい委員のところに名前を書け」
当時は学級委員に選ばれる人間は、成績もよく人望もある人に限られ、委員に選ばれることは自慢でもあったし、学級委員、保健委員、安全委員の漠然とした順位があり、それに入れば上流、はいらなければ一般市民というような暗黙の序列になっていた。結果はそれぞれ自分が書いた委員になってしまった。
家に帰って「ひどいのよ、こんどの岡村先生ったら」と母に文句をいっていた。
生徒間の先生の評価は「あいつ、きっと危ない実験をして、俺たちを自由に操ろうとしているんだ」などと噂をしたりもした。変な話だが、最初の頃は彼の悪口をいうことで生徒たちは仲良しになっていたのだ。1ケ月もして席替えは1週おきになった。そして新しい試練が加わった。2ケ月に一度グループ毎に自作自演のお芝居を発表しろということだった。当然「なにそれ?」「なんでそんなことをしなきゃならないの?」不満の声はあがったものの、結局やることになった。芝居を演じることも初めて、それに自分たちでつくらなければならない。グループのみんなは日替わりで各家に押しかけて、頭を突き合わせて台本を考え、稽古をした。最初は不満ばかりであったが、何かを自分たちで作り上げることの大変さと、それが出来上がっていく時の喜びを知った。そして本当なら決して行くこともなかった思われる男の子の家やそれほど親しくなかった女の子の家にいくことで、クラスの面々は急速に親しさを増していった。頭のいい秀才と呼ばれた男の子の家が小さなクリーニング屋で、稽古の途中で何度も母親に代わって客の応対をしていたこと。金持ちのボンボンに見えた男の子が古ぼけた団地で大勢の兄弟とひしめくように暮らしていたこと。おとなしく目立たない女の子の家が、とんでもない邸宅だったことなど・・・。それぞれの生活が学校ではみられなかったことが見えた、人の生きざまがみえた。発表会ではみんなに台詞を言わせるという条件があったため、誰一人欠けることなく台詞をしゃべり、照れたり、恥をかいたり、みんなは生き生きとそれを演じた。芝居をつくる作業の内に、何時の間にか変人岡村先生のクラスは一つにまとまった。「勉強にさしつかえる」と抗議しかけた父兄もあったようだが、生徒たちは必死で「続けさせて」と頼み、最後まで毎回グループを替えながらクラス全員のことも知るようになったし岡村先生は私たちの親分となっていた。

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