2008年12月8日月曜日

中村久子物語②


昨日の続きです。重いお話の続きになりますが、叔母の配偶者が難病で苦しんでいますので、ついこのようなテーマに目がいってしまいます。

中村久子の生涯」・4肢切断の一生:黒瀬曻次郎編述http://www.nakamura-hisako.co.jp

年表で中村久子の生涯を語っても実感が伝わらないのは承知ですが敢て・・・・・・・・・・・。

1911年(明治44年)

15歳、夏1月かかって単衣を口で縫いあげる。

20歳生きるために自分の姿をみせる見世物小屋入りを決める

24歳の524日、やっと見つけた弟栄三死亡、8月18日は母あや死去、身売りの年季明け、中谷雄三と結婚。雑誌「婦人界」に懸賞実話で1等当選。(以後別3回もの結婚を迎えるが、生活の糧の見世物興業をやる限り、興業主との交渉や運営には右腕となる夫がいないとどうにもならない不本意な結婚もせざるを得ないのだった。死神も逃げていくという表現をしているが、どうにもならない境遇であった。

25歳で義足装着

26歳時、長女美智子出産

27歳:夫が肺と腸結核の重態で倒れる。重病の祖母の病気見舞で故郷高山に帰るが、9月1日に関東大震災に出会、あわてて横浜の夫のところに戻る。9月17日祖母死亡。9月25日夫死亡。11月義兄の勧めで進士由太と結婚。

28歳:二女富子出産

29歳:夫進士由太急性脳膜炎で急死

30歳:定兼俊夫と結婚、秋久子左肺を冒される

37歳:女遊びの定兼俊夫と離婚、中村俊雄と結婚

41歳:ヘレン・ケラーと対面

42歳:書道家福永鷲那をしり歎異抄を教えられる。

   高山市は浄土真宗のきわめて盛んなところだそうです。

45歳:大東亜戦争はじまる

46歳:41歳で芸人生活を辞める決意で上京、42歳で見世物芸人に復帰したが46歳でピリオド、長女美智子に初孫の男子が誕生。

47歳:「宿命にかつ」2000部発行

50歳以降:講演や出版

1968年(昭和43年)72歳:脳溢血で倒れる。この年に死去

1993年(平成5年)高山市鉄砲町1番地の真蓮寺に顕彰碑が建立される。

歳は数え年で記載。

明治中期に生まれた明瀬ナツは久子さんより1歳年上であったが、字がかけなかった。昭和30年頃熊本県天草の本渡市の光蓮寺で中村久子さんの講演をきいたナツさんは感動した。それからカタカナで字が書けるようになるのに、何年もかかった。しかし中村久子さんは昭和43年に亡くなっている。

明瀬さんは光蓮寺の住職に昭和58年に87歳になって、中村久子宛ての手紙を書いてお願いした。「もうとっくに亡くなってなさること知っとんなはるでしょが・・・」「わかっとります。ばってんこの手紙は必ず浄土にとどきます。どうか中村さんのお仏壇に置いてきて下され」と頼んだという。光蓮寺の住職が高山にいくと聞いて、ナツさんは手紙を書かずにおれんかったのでしょうと結んでいる。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ずいぶん遅くなってしまいすみません。
中村久子さん、禅の老師の提唱の中にあって思い出しました。

坐禅というのは人間は仏と同じ力を持つ素晴らしい存在であることを自覚するために行うものなので、老師はこういう人並みはずれた力のあった女性の話をされたのだと思います。

それにしてもこれ以上は無いという逆境の中で未来を切り開くために4回(5回でしたっけ?)も結婚され、決して運命に負けなかった女性というのは本当に素晴らしいと思います。

こういう世の中にはまた見直されるべきお話かもしれません。

それにしてもイエローポストさんは一体どうやってこんなに素晴らしい本に出合われるのでしょうか。それも、次から次へと・・。

どれもみな購入されるとしたら、ご本の重さでおうちが沈みそうではないですか?

そに上精力的に他の活動もなさっていらして、いつ読書の時間がおありになるのかびっくりしてしまいます。

「アメリカの鏡ニッポン」とかも面白そうですね。いつか読んでみたいです。( ^-^)

今年も宜しくお願いします。