久し振りドライブに行こうと思ったが、試験のとき、拘束されているときは、あちこち行きたいところがあるのに、いざとなると、思い浮かばない。
以前歩いて見つけておいた車で30分先のケーキ屋兼喫茶店に行ってきました。これはと思ったというか、入店の多い・ケーキ屋さんの喫茶店はあたり外れがない。クッキーが美味しいところでした。
昭和12年4月17日午後2時、日比谷公会堂におけるヘレン・ケラー大歓迎会が行われた。ヘレン・ケラーの奇跡の声が場内の人々の耳朶をうった。主催者側の婦人会からの花束の贈呈のあと、中村久子さんという方が人形を呈した。付添のトムソン夫人が久子について詳しく説明した。それがトムソンの手話でヘレンに伝わると、彼女は両腕で久子をしっかりと抱き、それからあつい接吻をした。やがてそうっと両手で彼女の両肩から撫でおろし、袖のなかの短い腕にさわった途端さっと顔色がかわり、下半身をまさぐって義足とわかったとき、いきなり久子を抱きかかえ、長い間接吻し、両眼から涙をしたたらせた。
その場でヘレン・ケラーをして「私より不幸な人、そして偉大な人」といわしめた人、その名が中村久子さんという方です。
すべての幸福の条件を失ったが、しかし最終的には「なお人のために尽くすことのできる人間」になった。天災や人災、思いがけない不幸で、「すべての幸福の条件を失っても、尚人のために尽くすことのできる人間」を最高の人間という。この中村さんが言った言葉です。
中村久子さんは明治30年11月25日岐阜県大野郡高山町(現在高山市)で生まれた。両親の結婚後丸11年目にして授けられた。父は貧しい畳職人ではあったが、両親の可愛がりようはひとしおだった。数え年3歳であった。貧しいとはいえ、出来るだけの医者の手当ても行った。左足は突発性脱疽で両足の切断の憂き目にあい、さらに進行して、手は5指つけたまま自然にもげてしまった。7歳のときは、7月の豪雨の晩だった。父栄太郎は「久子、父様が乞食になっても、死んで離さないよ」と叫び、息がつまるほどきつく抱きしめられた。しかし39歳の父は夜具の上で亡くなっていた。家庭には久子の病気で使い果たして1円の蓄えもない。その時2歳の弟栄三と久子と母親のあやが運命の急変の中に残された。
日中は、何代も続いた町医者の娘だった祖母のゆきが作ってくれた人形だけが友達だった。
久子が8歳になった。障害者排斥の風潮濃厚な時代で、学校につれていってもらえるとばかり信じ切っていたが、虚しい期待だった。その年の秋母は久子を連れ子にして近所の人と激しい反対にあったが、弟・栄三は叔母に預けて再婚した。その叔母も1年して脳溢血で急死した。まつわりつく弟は育児院に預託する以外の方法がなく、別れることになった。
そうこうしている間に久子は目がみえないと言いだした。
母のあやは安住の地を死によってみつけようとしたが、果たせなかった。
祖母の願は通じてか、この目だけはかろうじて回復してランプの灯がみえるようになった。
母親のあやは、両手両足のないわが娘になにか身につけてやらねばと心を砕いていた。光を取り戻した娘に一生面倒みるほど長生きできないのだから、心を鬼にして着物の糸のほどきかたを言いつけた。何回も問答は繰り返されたし、「出来ません。無理です」と答えてもけして許してくれなかった。出来るまでやらせるしかなかった。ついに、ほどきものができる!これは大きな喜びだった。こんどは縫うことに挑戦したが、できても口にくわえての作業なので、終わる頃には唾だらけになるので、外からの仕事を受けることはできない。まわりの人はといえば、母と祖母以外は誰かれなく口汚くののしった。それでもできないことの上に燃える反抗心が育てた工夫を重ねて、針の穴に糸も通し、針も運びことが成就した。
ずっとあとでは信じがたい話ですが、羽子板は左腕の包帯に羽子板の柄を挟むことによってできるようになったが体全体を動くことができなかった。しかし自分で縫ったお手玉までもできるようになった。
それでも母は自分を生活のために、連れ子をして結婚した。そこでは家じゅうが忙しいとトイレも昼の食事も空腹をかかえながらも待たされる苦行が続いた。母は肩身が狭いので、分かっていながら手出しができなかった。母親は再婚した婚家を出たが、それは経済的にも出来ないので戻らざるを得なかった。
祖母は「口汚くののしられてもその人を罵ってはいけません」といきり立つ久子が喧嘩しようとするが諭すのだった。
これで彼女の逆境物語が終わったわけでなかった。続く
「中村久子の生涯」・4肢切断の一生:黒瀬曻次郎編述
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