黒沢明監督の作品もさることながら、支えていた方々のエピソードも負けず劣らず面白いのでした。
黒沢明監督没後10年の特集がNHKで組まれていますが、「羅生門」等の脚本を書いたもう90歳になった橋本忍さんが演劇関係の学生にいってます。
監督が言われるには弱いシナリオからは強い映画は生まれない。理屈は嫌いで、実証的なことだけが信用する。監督は1952年にある侍の一日の生活を脚本にしようという話になった。出来あがっている脚本や会社からの押し付けのものはやらないという監督の主義がある、朝起きて登城し、諸事務の繰り返しで帰宅する。毎日平凡な単調な生活の侍が、ある日重大事ありて、諸事務に責任問題ありて切腹沙汰となった。登城しても午前中は極めて多忙であるが、午後ともなると、親しい馬廻りの友人と釣り場、餌、糸の長さ、などの話に費やし安穏の生活である。これが一変して切腹を申しつけられる。こういう粗筋であるが、いわゆる時代劇の歌舞伎のように、型にはまったものは除外したいという意思がある。顔や月代を剃り、祖先に礼し、大事な残務を指示し、介錯は親しい友人に頼むことがら、妻や一男一女への別かれ等、友人は刀研師に頼んで今までのことを思い出しながら脇から剣に見入る。これらの切腹に至るようになってからのシーンは無声映画にする。という前提で次回の脚本にしようという打ち合わせになった。橋本さんは当時上野にあった国立図書館にいって調べ物をした。とにかく侍の一日を知らねばならない。そうすると、一日登城後の昼飯はどうだっか等のどう一日を暮らしていたかが知りたくなる。当時の食事は一日2食か3食かさえ文献にはのっていない。これでは事実に基づいての脚本は書けないので、監督に相談もしないで、調べたことはことごとく切り刻んで燃やし、庭に埋めた。ここでひとつの作品が消えたことになる。監督は概略の話からの連想で絵コンテまで書き進んでいたので、やめた事情を話したら怒られると思ったらそうではなかった。こういうようなことが無駄なような2度.3度あって脚本が出来るがもう研ぎ澄まされるた材料が蓄えられている。これらのことを目に見えるように説明してくれるのでした。これが「7人の侍」にまで発展したのだそうです。
最後に学生達に「脚本は下手に、楽して気を使わないで書きなさい。想像力は勉強して出来てくるものではない。勉強して出来てくるのは批判力である。まず自分を抑えないで、自由に描きなさい。それが出来上がってから批判力で仕上げなさい。最初から完全なものが出来るはずがない。あの監督も一生の努力目標を作って、それを着実に実行していたから・・」
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