2007年11月10日土曜日

米国の愛国心

写真はゆんフリーより
思想としてのアメリカ(武蔵野市寄付講座)2007年11月7日成蹊大学宮村教授(日本政治思想史に詳しい)続きです。

トクヴィル(仏国の貴族、仏革命のあとの時代の学者であるが保守的)とアメリカ:

仏国ではカトリックは自由の敵だった。やはり米国は信仰の国であるとの評価を下している。
「私は宗教の精神と自由の精神がわれわれにあってはつねに反対の方向に進むのをみてきた。ここ米国では両者は親しく結びついている。」
「合衆国には数え切れないほどの宗派があるが人間の義務にかんしてはすべての宗派が一致している。合衆国のあらゆる宗派はキリスト教として一体性の中にあり、キリスト教道徳はどこでも同じである」

米国人の「愛国心」の偏狭さ:米国人はこの国でなされるどんなことにも関わりあいがあるので、米国に対する批判は何事であれ、反駁しなければならないと考えている。国が攻撃されるだけでなく、自分が攻撃されることになるのである。米国人のお国自慢は手段を選ばず、児戯に類する個人的虚栄をあまさず発露するところまで行くことがある。
[西欧にゆくに従って宗教的感覚が薄れてゆく]こと米国に関しての自由はない。
米国の場合,市町村単位のレベルなら合理的であるが、大きな政府レベルになると、盲目的になる傾向がある。多数は専制方向になびくが、孤立する不安を抱え込んでいる。それを修正しようという動きはあり。
愛国心は個人のエゴイズムに相当する。国のレベルではそういう評価にならないで、当然という評価になる。

昨日も書きましたが、江戸幕府は儒教でしたから治める側の治国はあっても、各個人の愛国心はなかったが、天皇崇拝に進めたという説明をされていました。

日本もそうですが、米国の国民全体の考え方では時代が100年経っても変わらない面があるようです。

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