2007年11月9日金曜日

明治維新のころの知識欲

写真はゆんフリー提供
明治維新のころはいろんな知識を取得したいという意欲のにまさに燃えるがごとくでした。イエローポスト

思想としてのアメリカ(武蔵野市寄付講座)2007年11月7日成蹊大学宮村教授(日本政治思想史に詳しい)より

岩倉使節団は1871年12月(明治4年)の出発で(廃藩置県を終えたばかりで国が発足したばかりのころ)米国・英国・仏国・露国・西欧への歴訪の旅で時期的には無謀ともいえる使節団だったが、それほど列強の知識など早く吸収したという意欲に燃えていた。帰国1873年9月であったが、これの詳しい内容は岩波文庫に5冊の米欧回覧実記という記録集がある。

この一行に久米邦武という後帝国大学教授がいてその記録もある。

米国は「信仰の国」である。南北戦争や普仏戦争の終結したころであった。
大統領はじめ有力者が日曜日に率先して教会にゆき、説教を聴いているのを知った。またニューヨークの出版社ではバイブルを印刷するのを見たが、数はものすごく、どこの家庭にも、ホテルにもバイブルが置いてあるのをみた。それは民心に浸透して、米国人の勤勉とモラルの基本になっていた。教義をきけば「処女懐胎」、「死囚の復活」など久米の表現を借りればまるで「瘋癲の戯言」としか思えないほどだと。しかしその信仰の篤さには感心せざるを得なかった。そこで伊藤博文らの急開化組は、この際日本でもキリスト教になってしまえという始末さえあった(四書五経の読解できるのは士族でも僅かであるとか、仏教についても、宗教心についての批判は厳しい)。米国における愛国心は建国間もないのにもかかわらず、(江戸幕府は儒教なのでこういう思想は含まれていないので国を治めることであった。この愛国心を天皇崇拝に導いた糸口であった)米国民の愛国心は特別なものであった。


この10年後であるが、自由民権運動がおこった。2つの潮流があり、土佐の武士から展開された反政府士族と、もうひとつは豪農民権家を中心とするものであった。
その学習運動がいかに熱烈だったか、五日市学芸講談会のときは2・3里の遠方より200人に及ぶ。議論妙所に達するや手拍ち声を揚げて賛成を表し、僻地に稀なる盛会なりし。奥多摩の孤島といわれた檜原村の南郷からさえ通ってきた青年がいた。ちなみに1881年(明治14年)五日市学芸講談会は会員百余名で月2・3回の定例演説や報告の学習会を行っていた。こうした集会で使用したとみられる当時の新刊書は216冊にも及び、半分は政治・法律書であった。これにより憲法草案の起草の準備を行っていた。これらの蔵書は豪農深沢家に残っており、当時の米国のエール大学の教科書に相当する内容のものを翻訳したものだということが分かった。
日本で最初の政党自由党は多摩の人たち、とくに豪農と言われる人たちだった。

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