2009年2月19日木曜日
戦争広告代理店⑤
おはようございます。長い長いドラマになってしまいました。もう一回で最終回です。
このドラマの続きです。
包囲されたサラエボの38万人の市民に援助物資を運ぶために空港(その周囲は最も戦闘の激しいところだった。)を確保した国連軍の部隊の将軍マッケンジーが任務を終えての記者会見で質問されたのは、「包囲されたサラエボでの日々はどうでしたか?」と思っていたが、「あなたは強制収容所について何をしっていたのですか?」→「何ひとつ知りません、私が知っているのは、モスレム人とセルビア人の双方が、相手の側にこそ、そういう収容所があると言って互いに非難している、ということだけです。」
メディアにとって「何も知らない」といったのは収容所の存在を将軍が否定したものと受け取られても仕方がなかった。こうなると「強制収容所」がデッチアゲという逆宣伝のPRになりかねなかった。事実将軍は代表的な報道番組にでて、「収容所については、何も知らない、情報がない、見ていない」を繰り返した。そこで危機感を抱いたハーフは外相と一緒に将軍に抗議するにあたって、将軍の母国の外務大臣バーバラ・マグドゥガルに「世界はナチスの虐殺を再び目にしている。同じような恐怖を連日目撃している。人種差別主義がはびこるのをこのまま座視してよいのか」と。この抗議は逆効果となるリスクもあったのだそうです。マッケンジー将軍の発言は、これまでのカナダ外相のセルビア非難の発言と大いに異なっていますという外交文書を送付した。この外交文書は世界各地のメディアでのマッケンジー発言を把握していなければできない芸当だった。そうなるとカナダ外相の立場を危うくすることも十分に考えられる完璧な内容だった。そしてタイミングを逃さずに、メディアにも伝えた。
セルビア共和国のパニッチ首相の次の一手は、フランスのミッテラン大統領とに直談判によって主要国の首脳が一堂に会してボスニア紛争の解決策を話し合う一大会議を開催することとし、それがロンドンで行われることになった。パニッチ首相はこのチャンスをものにするために、セルビア共和国北部の「ハルトコプチ」というクロアチア人が多く住む町でセルビア人の町会議員長とその仲間4人を「民族浄化」を行っているとして逮捕させた。これは国内で不人気な処置であったが、パニッチ首相は国内で自分の政治基盤に傷をつけてでも、国際社会にアピールしようとした。他なりふりかまわず連邦政府のケルテス内務次官を更迭した。これはミロシェビッチ共和国大統領の逆鱗にふれることだった。それはセルビア、そしてユーゴスラビア連邦に対する悪のイメージをミロシェビッチ一人に負わせ、すべては彼の責任であるとする覚悟を決めたPR戦略の一環だった。
1992年8月26~27日のロンドン会議で、共同議長の一人、ガリ国連事務総長がミロシビッチ大統領に質問を発した時だった。パニッチ首相は「議長、その質問は私にしてください」一瞬議場は何が起きたかのか分からなかった。パニッチはすぐ続けて「君は座りたまえ。この国を代表するのは私だ」と言い放った。大統領も怒りで顔を真赤にし、すぐには言葉が出なかった。「だまれ」とさらに一喝した。前代未聞のできごとだった。これはヤラセではないかとも思われた。パニッチは会議の休憩時間に「この場で、ボスニア紛争の責任をとって辞任したまえ」と衆人環視の前で叱責した。これはセルビア陣営で地殻変動が起きているというニュースとなるはずだったが・・・。しかしそれ以上のことが準備されていた。
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