2009年2月14日土曜日

戦争広告代理店①



おはようございます。昨日はメル友さんからもう蕗のとうがでていますよという写真までみましたので、散歩がてら黒目川の川沿いの土手周辺を探しました。
あったのは、福寿草、水仙、蝋梅、梅で蕗のとうは見つけられませんでした。まだなのか、もう終わっているのか、蕗の姿がないのでまだなのでしょうか。

「戦争広告代理店」というNHKの高木徹さんという書いた本で
以前から分からなかったバルカン半島のユーゴスラビア連邦崩壊の情勢が分かりにくかったのが、この書籍でかなり明確になったようです。

ユーゴスラビア連邦の2つの都市、東側に位置するセルビア(ルーマニアに接する)、西側に位置するボスニア・ヘルツゴビナの都市はそれぞれベオグラード、サラエボである。
1990年代の最悪の民族紛争となったボスニア戦争が実際にどのようなものだったか、誰が加害者で誰が被害者なのかそれを百パーセント客観的に述べられる人は世界中のどこを探してもいない。もとは同じ連邦の2つの都市の市民の両方にこの紛争について聞くと、善玉と悪玉が完全に入れ替わった正反対のストーリーを聞かされる。とにかく米国・ロシア・日本の研究者やジャーナリストに聞いても自分の立場によって見解が分かれる。
 偉大な指導者チトーのもと、40年あまりにわたり存在してきた社会主義国「ユーゴスラビア連邦」は多民族国家である。チトーの死とそれに続く冷戦構造の崩壊は、人々の心の奥底に生き続けていた民族独立への渇望をよみがえらせた。1991年連邦を構成する6つの共和国のうち、最も西に位置するスロベニアが独立、次にクロアチアが独立した。これに対し連邦政府と連邦軍は軍事力で独立を阻止しようとし、連邦軍と各共和国軍との戦闘が始まった。そのころの連邦政府は、実態としては各民族共同の政府ではなく、連邦首都のベオグラードがあるセルビア共和国の大統領ミロシェビッチらセルビア人によって牛耳られていた。したがって、この紛争は、セルビア人で運営される「ユーゴスラビア」の版図を維持したいというセルビア人と、そこから脱却をはかる各民族との戦い、という構図になっていた。
いちはやく独立したスロベニア共和国はその人口のほとんどがスロベニア人で占められる。だから彼らの独立戦争は自らの領域から、少数のよそ者を追いだせば完結した。
だがボスニア・ヘルツゴビナにはそのような圧倒的多数を占める一つの民族はいない。最大民族といっても4割強を占めるモスレム人がおり、それに匹敵する勢力として、3割強のセルビア人が領域内に住んでいた。そして第3勢力のクロアチア人も2割弱いた。
セルビア人やクロチア人には隣国に本国があるが、モスレム人は一言でいえば、中世、この地域を征服し支配下においたオスマントルコの影響をうけてキリスト教から
イスラム教に改宗した人々の末裔である。モスレム人は多数をたのんでボスニア・ヘルツゴビナはモスレム人の国だと強引に国民投票にかけて決めてしまった。これでセルビア人が反発した。自分たちを迫害するだろうと、それはいやだというのである。政府には他の2つの民族の議員などが引き揚げモスレム人だけの政府に変質した。

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