2009年2月15日日曜日

戦争広告代理店②


おはようございます。昨日のあたたかさは春を通り過ぎていました。車の中の暑さも格別でした。又昨日の続きです。前置きが長いので待ちくたびれますが、辛抱のほどをお願いします。

この変質した政府の外務大臣はシライジッチでモスレム人であり、その敵セルビア人は人口ではモスレム人より少なかったものの、軍事的には隣の本国セリビア共和国の支援を受け、はるかに強大だった。セルビア人が力をもってモスレム人主導の独立国家の成立を阻もうとすれば、これを防ぐのは困難だった。こうしたことからボスニア・ヘルツゴビナ政府は、ボスニアに戦火が及べば、その紛争を「国際化」すること、つまり可能な限り、他国々、できれば力の
ある西側先諸国を主体とした国際社会をこの紛争に巻き込み、味方につけることによってセルビア人たちの軍事力に対抗するという方針をあらかじめ決定していたのである。
この決定が正しかったかどうかは分からない。なぜなら4年近くにわたる紛争で数十万もの市民が命を落とし、ボスニア・ヘルツゴビナの地に今も消えることのない民族間の憎悪が残ったからだ。すくなくとも圧倒的な優位にあったセルビア人の軍事力を西側先進国の力を使って相殺するという目的は果たしたことになる。
ではいったいどうすれば、国際社会をボスニア紛争に巻き込むことができるのか?
それが大統領イゼトベコビッチの外相に「一人でも多くの国を訪問し、一人でも多くの首脳と話して彼らを説得してきてほしい」が命令だった。この意を受けまずヨーロッパで数カ国を回って後で国連本部のあるニューヨークに渡ったのである。その間事態は切迫していて、米国に渡る直前サラエボで起きた市民平和デモへの発砲事件がきっかけとなりセルビア人とモスレム人の戦闘が連続して発生、本格的内戦状態へと突入した。
ニューヨークで期待どおりの成果をあげることができなかった彼は首都ワシントンを訪れた。彼の政府にはワシントンに大使館もなかった。彼はアメリカ人の活動家デビッド・フィリップスに電話して活動家の家に呼ばれた。活動家は世界のさまざまな国の政治家とも面識があったし、サラエボも訪問していたし様々なサポートをしてくれた。4月14日には米国務長官ジェームズ・ベーカーと国務省で会談することに成功した。
外相との会談で長官は魅了されてしまった。「セルビア人たちは無辜の市民を動物のように殺しているのです」どんな外交上の美辞麗句より雄弁にボスニアの人々が直面している苦しみを語った。ベイカー長官は一つのアドバイスを外相に与えた。それがタトワイラー報道官に伝わり、そのタトワイラーは長官の腹心の部下だったので「メディアを味方につけること」という長官の意図を解説した。
米国は世界中から助けてくれというのが日常茶飯事なので、世論形成した案件でないと応援出来ないと言われた。ボスニア・ヘルツゴビアにはCNNのクルーは入っているのですか、何を置いてもメディアを通して訴えることですといわれ外相はすぐに行動を起こした。
会談後メディアの前で記者会見した。外相はずっと歴史学者だったので、メディアとの接触は最も彼の世界から離れた出来事だった。「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」ということわざが浮かんだ。

「戦争広告代理店」というNHKの高木徹さんという書いた本より

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