2009年2月10日火曜日

AC&DV:信田さよ子さんの講演からその②


もう梅もあちこちで咲いています。又今年の桜はどこがよいかなど思案する時節になりました。昨日の続きになります。
防止法には虐待する親を逮捕するという条項はない。今まで法的にも「法律は家庭に入らず」という原則があって、家庭は放っていても治まるという考え方があった。これでは日本でも
いけなという反省から生まれた法律であるが、加害者の意識改革をさせるカウンセリングに、妻の意向によって連れてゆくのは、修復を望む男性側の同意をうるのは難しい。台湾や韓国の方が先行しているのは、裁判所が命令することによって可能となっている点である。
吉野川DV事件のDV(家庭内暴力)被害者である妻は子供をつれて逃げたが、加害者である夫は私立探偵に依頼して居場所をつきとめ、子供の目の前で暴力をふるい死亡させた事件である。
やすやすと、おれの女房をおれが殺してなにが悪いとうそぶいていたという。
今度できた法律によれば、実効性はどうでしょうか、保護命令によって、一定距離、近づいてはいけない・退去命令があるそうです。2ケ月[逃げる準備をさせるために]場所を退去しなさい。

AC(アダルト・チルドレン)は親から被害やコントロールを受けたと思っている子の感覚で、親の感覚ではない。
それが日本の場合20歳を過ぎると、子供自身の頼りのなさに評価がいって駄目扱いされる。しかしずっとのマンイドコントロールを受け、逃げられないでいるのであるから20歳になったから自主独立できる訳ではない。
明治になって家族ということが認識されたので日本では100年の歴史、欧米では300年の歴史がある。
家族は永遠ではない。男と女が愛し合って結婚して子が出来て、おのずと家庭ができるようにとくに男性は簡単に考えているが、そうではない。何故家族が必要で男の役割、女の役割が必要かといえば、資本主義が安定した家庭の労働力を期待していたからである。(大量生産においては、作業開始は一斉であり、同一レベルの早さ・品質が要求されているからでしょうか)
最近は量的に拡大するか、製品の寿命が短く、絶えず新製品を必要とし、これを生み出す人間が働ける人間であるので、常に緊張を強いられている。その人間になってもならなくとも、近代の家族は常に裏側にはDVを背負っているのですという。
世間では被害者は暴力を受けて大変だと思って居るはずと考えるが、その本人はそうは思っていない。支え合いたいのに、どの部分が私がダメなのかしらと思っている。殴られたり、けられたりしても、フツフツとした抵抗しようということにはならないのが不思議なところです。夫がそういうから私が悪いんだという思い込みになっている。これから離れて解放されてしばらくしてから、あれがDVだっと分かるのだそうです。夫が満足している家庭はDVに走りがち、そうではなくて、日曜日で休みなのに、子供を連れて外出するような、子供との前からの約束を守り、子供が満足している家庭ではDVは起こりにくいそうです。
結局は家庭では母親が食卓の場をコントロールして、気分よく子供らがゆったりと食事している風景が望ましい。
それは夫が妻を、親が子を養っているわけなので、権力はその側にあるので、恐怖を抱き、従わざるを得ないのは弱者なので、そのことを権力を持っている側が認識していないと、自分をコントロールできない状態におちいったときに、ウップンのはけ口は弱者に向けられることになる。
どうも聞いている趣旨はDVの加害者は、実は被害者意識をもっている・内心自分が甘えたい気持ちがあるのに、社会で去勢をはって生きている緊張感を自分では気がついていないままに、解放しようとして出てくるのがDVとして現れるのだそうです。
ACも母に応えたい・いい子にならなけりゃと思っている方向に固定されているので自分の内心の気持ちは解放されないまま、表面に出てこれない。
DVは子供が父親が暴力をふるっているのを見た男の男性が、自分が結婚して同じことをやるのが日本では90%、米国では70%あるそうです。
説明がカウンセリングのやり方がそうなのかもしれないが、ズバットはいわないで、聴くものにも考えさせ、感じさせるようとしていて、なれないと、遠まわしのように感じられますが、じわっと残ってくるような話しぶりでした。
2009.2.8講演【家族の未来をみつめて】:信田さよ子原宿カンセリングセンター所長

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