写真はSQUALLより
おはようございます。昨夕の夕焼けも見事なものでした。この頃は夕日が落ちると急に肌寒く感じるものですが、
そうまでなりません。菊の花が近所の畑に見えます。植えてというよりも育ったという感じですが逞しくそだっています。
山田昌弘東京学芸大学教授の「私の仕事・私の生き方」文芸春秋季刊秋号より
ある記者に「昭和30年代にあって今ないのもを挙げてください」と質問された
私は昭和32年生まれである。子供の頃は、小遣いを握りしめ駄菓子やおもちゃを買いにいったとき、店の人に「ありがとう」といっていた。家でご飯を残そうとすると、「汗水たらしてお米を作ったお百姓さんに申し訳ない」と親にしかられた。大人になってなりたい職業は都電の運転手だった。このころは働く人にたいする尊敬があちこちで感じられたものである。今はどうだろ。お店の人が子供であっても「ありがとうございました」と頭を下げる。買ってやっているという態度で売り手に臨む消費者が多くなっている。農家は米余りだから作らなくてもよいといわれる。電車の運転手は少しでも遅れる「お客様」より罵声を浴び、経営者からはもっと効率的にしろと圧力がかかる。
そうまでなりません。菊の花が近所の畑に見えます。植えてというよりも育ったという感じですが逞しくそだっています。
山田昌弘東京学芸大学教授の「私の仕事・私の生き方」文芸春秋季刊秋号より
ある記者に「昭和30年代にあって今ないのもを挙げてください」と質問された
私は昭和32年生まれである。子供の頃は、小遣いを握りしめ駄菓子やおもちゃを買いにいったとき、店の人に「ありがとう」といっていた。家でご飯を残そうとすると、「汗水たらしてお米を作ったお百姓さんに申し訳ない」と親にしかられた。大人になってなりたい職業は都電の運転手だった。このころは働く人にたいする尊敬があちこちで感じられたものである。今はどうだろ。お店の人が子供であっても「ありがとうございました」と頭を下げる。買ってやっているという態度で売り手に臨む消費者が多くなっている。農家は米余りだから作らなくてもよいといわれる。電車の運転手は少しでも遅れる「お客様」より罵声を浴び、経営者からはもっと効率的にしろと圧力がかかる。
こういう状況は、今までないがしろにされていた消費者や納税者の権利が尊重されるようになったという意味では進歩であろう。それがお金を持っていて使う人が「偉い」という意識が広がっているとしたらどうだろう。お金を払えば、サービスをうけて当然、文句が言える。一方、お金をもらって働く側は普通に仕事をしてあたりまえ、少しでも不都合があると、本人の責任でなくとも文句を言われる。その結果、働くことへのやる気とプライドが失われて行く。フリーターから社会保険庁問題、今起こっている仕事がらみの問題は「働くことへの尊敬」が失われていることが根にあるのではないか。
歴史的にみてみよう。前近代の身分制度では、貴族や領主、聖職者は働かずして生活を)楽しむことができた。一方、庶民や奴隷は朝から晩まで働かされ、その成果は搾取されていた。当時は、働くことは単なる苦役であったのだ。当時はお金を儲けることは卑しいこととみなされていたし、「ベニスの商人」に見られるように、お金を貸して利子を取るなどはもっての外だったのだ。
西洋社会で、働くことの意味が逆転するのは、15世紀の宗教改革以降のことである。プロテスタントの創始者であるマルティン・ルターは働くことは、「神に呼ばれて行うものである」との説を唱えた。今でも召命(calling)という英語には、職業という意味がかすかに残っている。働くことは、それが「他人の幸福を増やす」ことだから、働いたお礼として
お金を受け取ることは悪いことではない。それが「社会全体の富」を増加させるために効率よく分業して働くというアダム・スミス思想につながり、ベンジャミン・フランクリンの「勤勉)を尊ぶ思想となり、資本主義を発展したのだ。
そして近代社会では、他人を幸福にした見返りとして儲けたお金は、神様からの預かり物だから、大切に使わなくてはいけない。快楽にふけることを慎み、投資や寄付をすることによって社会に還元しなければならない。今でもキリスト教倫理が強いアメリカでは、たくさん儲けてたくさん寄付する人が「尊敬」されるのだ。
日本でも、江戸時代には勤勉を尊び、享楽的にお金をつかうことを戒める倫理が成立していたと考えられる。それが明治時代には日本社会が近代を急速に成し遂げ、戦後復興を果たすことが出来た。
近代社会は日本でも西洋でも「働くこと=他人を幸福にすること=尊敬されるべきことという意識、快楽のためにお金を使うことは「軽蔑」されるという意識から出発した。今それが逆転し、働くことへの尊敬がうしなわれつつある。
理由の一つには、近代社会が成熟し、ものを作ってもなかなか売れない「豊かな社会」になったことが挙げられよう。生産者は、消費者にモノを買ってもらうために、頭をさげなくてはいけなくなった。また金融の発達により、勤労がお金を生むというより、お金がお金を生む様相が強くなって行く。また仕事の現場が見えにくくなっていることも一因だろう。お米なら作っている人の姿が想像できる。しかしパソコには設計する人にから部品を作る人、運ぶ人など何千人の努力が詰まっている筈だが、その姿は目にみえない。土地やの株の値上がりで金儲けをすることが奨励されたこと。そして高級品を身につけることが「えらい」という意識が一般化した。つまり働くことではなくて、「お金」そのものが敬意の対象となってしまったのだ。ホリエモンが「お金で買えないものはない」といえたのもこの)延長線上にあることはいうまでもない。
市場原理に罪があるとすれば、お金を使うことは、働くことよりもえらいという意識を広めたことである。
その結果,働くこと自体が尊敬されなくなった。働くことの意味を見つけなければならなくなった。それは、働いた、結果としての「お金」か、仕事自体が面白いかのどちらかとなる。逆に言えば、収入が低かったり面白くない仕事はしても意味がないとい意識が広まる。仕方なく働き続ける。その感覚はフリーターや正社員にも広がりつつある。
本来は、あらゆる仕事(単純労働でも家事でも)は、社会にとって不可欠であり、他人の幸福を増すために役立っている。きちんと仕事している人を褒め、フリーターも含めそれを評価する仕組みを作る。働くことそのものが尊敬される社会に)戻るためにはそのようなことが必要だろう。
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