2007年10月15日月曜日

印刷機の効果その2



昨日の続きになります。本など無い時には、物語を聞くときは吟遊詩人から耳で聞いた。吟遊詩人が広場でなんらかの文学作品を語っているときに、おしっこがしたいと思ってその場を離れる。そうすると、そのときに、ほかの人たちもみんないるわけですから、吟遊詩人は1人がおしっこに離れたからといって、その離れた人間に遠慮して話をやめることはないんですね。


そうすると、おしっこへ行って帰ってきた時、もう吟遊詩人は話の先の方へ行ってしまっているわけです。自分が不在だった部分はスポーンと抜けてしまって、そこを聞きたければ、またあらためて吟遊詩人が語りにやってくるまで待っていなくてはいけないという、そういう面倒くさいことが起こるわけです。


これは非常に単純化して言っているわけなんで、まあ、詩人も一箇所に長らく滞在した可能性も高いですから、翌日にはまた聴けたかもしれませんが。 


ともあれ、我々が耳だけで文学作品を聞いていたころというのは、具体的に自分の生活、時間の中で、それを黙ってじっと立ったり坐ったりして耳を傾ける以外に方法はないんですね。いまで言うと、お芝居と同じことです。何日もやっているお芝居というのもあるわけですけれども、それでも毎回そのお芝居を芝居小屋でやっている役者さんは、必ず微妙に違った演じ方をおそらくするわけですね。ですから、例えば初日に観たということと、それから最終日に観たこととは多分違っているわけです。そこが芝居のおもしろいところで、1回制ということなんですね。たった1回しかその行為は行われないというのが芝居の原則であって、そしてそれと同じように、昔の耳から聞く文学というのは、たとえ元になったテキストがあったにしても、吟遊詩人の肉体を通して語られる時、それは唯一無二の1回性だったんです。その場で聞いてしまわない限り、もうあとはない。


 ところが、本ができました。本に書かれてあることは、いま言ったように途中でやめて、そしてまた帰ってきてからそこから読み始めることができる。この効果は
何回でも読めるという楽しみが出来たことになります。単純ですが国内のどこへでも、外国でもあらゆる国へと伝達できる効果は絶大です。

東京経済大学:大岡教授の講義録より(ネット掲載がしてあります)

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