2009年1月15日木曜日

アメリカの鏡・日本④


都心の市ヶ谷の街路樹の楡けやきは若い芽の葉がでていたのですが帰宅途中に確認してみると、郊外の西東京市ではそういう気配はない。違いは市ヶ谷のは太い幹までに刈り込んであった。西東京のは今年はそうはなっていないで、小枝が垂直にのびたままです。そうすると両者の距離の差は35キロくらいで極端な温度差はないとすると、刈込の有無で、市ヶ谷のほうはびっくりして若芽をだしたのでしょうか?

アメリカの鏡・日本も④になりました。中国の革命指導者孫文は「三民主義」のなかで次のように書いている。

ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席についた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白色人種にできることは日本人にも出来る。人間は肌の色でことなるが、知能には違いがない。アジアには強い日本があるから、白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。かつて我々はヨーロッパ人がすることはわれわれには出来ないと考えていた。いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、我々も日本と同じように西洋から学べることを学べることを知った。

これからまた彼女の主張にもどりますが、とりわけ民主主義大国と日本、中国の関係は優れた教材である。日本との関係では、西洋列強は1894年※2(明治27年、清国に宣戦)から1899年(明治33年)にかけて治外法権を相次ぎ放棄していった。しかし、通商特権をなかなか放棄せず、日本が自分の手で関税を管理できるようになったのは、やっと1912年(明治44年は大正元年)からである。中国の場合、教育は日本より早く始まった。しかし中国は西洋の厳しい要求水準を満足させることができず、教育の修了はずっと遅れた。(どういうことでしょうか※3、分かりずらいのですが、

日本は54年で関税の自主管理権を取り戻したが、中国は88年かかっている。それでも完全に管理するにいたらなかった。日本は治外法権を完全に外すのに45年かかったが、中国は実に104年(※2)かかっている。中国が完全に卒業したと認められたのは、1943年から1946年(中国での国共の内戦)にかけてである。「遅れた」国でも指導大国の意にそわない国を戦争で打ち破るまでに成長すれば、対等な主権国家として独立が認められる。

1第一次世界大戦後の19196パリ講和会議の結果として連合国ドイツとの間で締結された講和条約1919628ベルサイユ宮殿で調印。1920110批准。

 ドイツは全植民地と本土の10%以上を失い、軍備の制限を受け、多額の賠償金を課せられた。

 この条約ドイツ民族意識を高揚させ、ナチス政権誕生を導いた原因となった。以降の戦争ではその反省から敗戦国に多額の賠償金を課すことはなくなった。

 1935ヒトラー政権がこの条約を破棄。

3

日本の場合1872年(明治5年)学制頒布(ゆきわたらせる)、1879年教育令制定、1882年幼学綱要頒布、1886年小学・中学校令公布。

中国の場合:清国があった1850年代に学制の前身、1872年米国への留学生派遣、科挙の制度はまだ生きている。その後の教育事情が清国が倒れてから不明なのは1949年の台湾の政権しかないためである。

「アメリカの鏡・日本」ヘレン・ミアーズ著より

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