2009年1月18日日曜日
自立支援法
おはようございます。昨日は障害者の自立支援法※についての茶話会があって聞いたところ、やっと外に出られるようになった人、作業所で一月3000円(桁違いではありません)の給料をもらうのもやっとの人が多い。作業を援助する人があって生活している訳ですが、応能負担(その人の負担できる能力に応じて)が応益負担(サービスを受ける内容に応じて、負担能力は関係なく)、また補助が月払いから日払いになったので、どうしても日割りで削られるので作業所の収入を圧迫しているのが分かるので、勤めを楽しみにしている障害者でもきちんと毎日出勤できる障害者も少ないのですが、作業所の経営を安定させるのは無理してでも仕事をせざるをえなく、風邪をひいても1日でも休みにくくなった。
作業所も収入が現実に減って、職員の減員(職務内容の激化)・給料のダウン、障害の軽い人を受け入れていては補助による収入が少ないので重い人を入所させるが、こんどは重い人には職員の援助が多くなるという事態がある。となると軽い人と敢てみなされた障害者は、無理にも、自立できるような収入の仕事をして働きなさいというので6ケ月間「」自立して仕事する訓練期間はあるが、指導員がついて働いている状態から、(元来働ける人は働いている訳で、)いまさらに無理を言われ、現場は不安と混乱を来している。
下記はないないという厳しい時代ではあるが、こんな人がいたということでも救いになりました。
あのころは、窓の外はいっぱいの青空で、東京府立清瀬病院に威厳をたたえていた黒光りのする屋根・屋根を超えて、形のよい赤松が数本、ちょうど辞表を懐にしている私のように、背伸びして焦っていた。振りかえってみれば、5年の間は夢中であった。患者用も食糧が翌日の朝までしかない日があった。看護婦が足りなくて手術を制限せねばならぬ時もあった。病棟も戦災をうけた病棟が復旧できたのがやっと去年の8月(昭和27年)から5年半の間、瓦が落ち、天井のぶら下がったままだった4つの病棟がやっと復旧したという時代だった。そこの若い院長の日記です。
昔結核病棟は死に近い病棟だった。そこで療養に励み、幸運にも退院できた矢口さんがやってきた。
「平塚の細嶋さん親子はとてもいい人だったので、いい所をお世話していただいたとことと思って喜んでいます。」と矢口さんは綺麗な二重瞼の眼が笑った。
全く心当たりない細嶋さんから手紙をいただいた。子供と2人結核で寝ているので、食事の世話に困っていますという書き出しで、部屋と食事をつけて月3千円差し上げるから、理解のある回復者を一人紹介してもらえないかという手紙だった。(ここの病院長には、読者からの相談事が多く寄せられて、多忙の中で、キチンと返事を出す人でした)
どんな女中を頼んでも母子2人の結核なので、数日で嫌がられて逃げられるという。
そのころ病院では回復期の患者を常に七十数人も抱えて、就職と住宅に弱りぬいている回復者にとって素晴らしい話だった。医務の事務官が自分でその話を調べに出かけていって、会って話を聞いた結果、平塚の海岸の温かいところで17歳になる息子さんと、お母さんが2人とも大した病状ではなく、いい人らしいという報告を受けて選ばれたのが矢口さんだった。「細嶋さんもとても喜んで下すって、今まで方々の療養所にお願いしたけれど、返事も頂けなかったのに、とても嬉しいと涙を浮かべていらっしゃった」との細嶋さんの様子も矢口さんから聞いてよく分かった。
院長日記:島村喜久治:筑摩書房より
※自立支援法:障害をもった人に、サービス料の原則1割負担を導入。それまで所得に応じた応能負担で収入が低い大半の障害者は自己負担がなかったが、サービス利用障害者の9割に負担が生じた。利用抑制が相次ぎ、2度の負担軽減がとられた。見直しに向け、社会保障審議会障害部会が今月もとめた報告書は1割負担の可否を明言せず。
サービスといっても一例でいいますと、福祉作業所で仕事のことをいう(紙袋に手下げを付けるような単純で決まり切った作業(そうじゃないと出来ない)は機械化・自動化・省力化の世の中ですから、仕事の量が一定せずあったとしても一つ1円位の仕事の場合が多い、これを利用するということは指導員がいて、仕事の注文を受けて、その段取りや納期の管理をする人がいる。障害者である入所者は、3000円の月収の中から、たとえ1割負担でも、作業所で働くことのサービスを受けると、1万円とか2万円になって負担しきれないという問題になっている。大会社が特別子会社をつくって大量のパンフレットの仕事を出す場合で障害者の雇用も図る場合は税金の特典が得られるケースもあるが、こういう例は極めてすくなく、一般の作業所では仕事量の確保が難しいのが現状である))
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