2009年12月28日月曜日
近隣の国際交流
おはようございます。なぜ通信使というのか分かりにくいが、使節なのではないでしょうか。
朝鮮通信使:2009.12.27NHKETV特集 日本と朝鮮半島2000年(9)「朝鮮通信使 和解のために」
今までの認識は朝鮮から来た一行は、ただの普通の使節団だと思っていた。ところが時代は室町時代に始まるという。室町時代から始まったこの使節団は、秀吉の朝鮮侵略によって途絶え、江戸に入って日本が要請して再開され200年以上も続いたとのこと。それも昔の韓流ブームだった。使節団の規模は500人にもおよび、半年も滞在したのだそうです。朝鮮の意図は秀吉のような制服心を起こさないように文化交流によって親睦を目的としたものだった。
道中は音楽隊が先導した。(日本の場合の行列は、大名行列で権威の表明のように「下に、下に」とは違い親しみを表した。日本側も宿泊先の食事の準備も、日本では朝鮮が好む獣・四足の肉はないので、長崎の中国人が食した豚や、国内では鹿の肉、イノシシの肉まで準備し、宿泊先の調理場に運び込むのに、専用の出入り口まで用意した。日本の民間人などは、その食事の前に、押しかけてきては、いろいろのことを知りたがった。
静岡付近ではこの使節団に富士山が見える絶景の道をわざわざ造成さえした。文化使節団なので文化に詳しい人が来日し、書や詩が好まれて、筆談で夜通し語り合うことがおこなわれ、別の場所に移動するときの名残を惜しむ別れも実のこもったものだった。国と国の交流を越えて、庶民レベルまでになっており、人と人との付き合いになっていた。通信使が日本にきてみると、秀吉の行った野蛮な国ではないこともよくわかった。
しかし韓国側の学者の意見は、室町時代で200年続き秀吉の時代の朝鮮侵略後途絶えた期間も200年、江戸時代に再開され200年、平和交流の長い国際交流の希有な例ではあるが、回復にも長い時間を要し、この交流が途絶えると、戦が始まっていることに留意しなければならないとのこと。
朝鮮通信使のwikipediaの説明:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
を読むと、国際交流であるから、いい面や悪い面、朝鮮側は偵察の目的、日本側は入貢の為とかがあったようです。
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