2009年12月22日火曜日

サッカーの人生哲学②



沢田耕太郎のサッカーの本を読んで以来、いまの内6月のワールドカップが始まる前に、冷静な目を養っておこうと勉強しています。しかしこんな単純でありながら難しいものはないことも分かってきました。

イビチャ・オシム著・長束恭行訳「日本人よ!」より

●肉体的には欧米と比べるとハンディキャップがある。
●日本人のプレス※・流動性は大変見事、「日本人のマークをはずすことはできない。いつも君のとなりに一人いるからね」と外国人の噂になっている。
●自分の頭で考えることと責任:
日本という国は規律やルールがあるからこそ、すべてがうまく機能している。つまり自分の頭をあまり使うことなく、規律やルールを重視して行動しているからこそ「アナーキー」な状態とはほど遠い国となっているのだ。それはとても尊重すべきことではある。しかしロボットではいけない。
「日本人は疫病から逃れるかのように責任を逃れる。これはオシムさんだけでなく、日本サッカーに詳しい誰もが語っている。この問題はおそらく日本の教育、学校システムにまつわる事柄だから。常に上にいる誰かの責任を負う、サッカーではこの仕組みが必ずしもそうではないのだ。日本の教育は長年に渡って罰を与え来たシステムにあるとオシムさんは考えた。どんな小さなミスでも罰せられると考え始めた瞬間に、人は罰せられないようにするために何もトライしなくなる。しかしサッカーはトライとミスなしでは進歩することはできないのだ。サッカーは自分に関するすべての責任を負うものなのだ。
責任の為の責任はミスの温床となる。どんな場面でも責任感を持ってしまうのも問題がある。だから、どうやって動くべきか、どこで何をすべきか、なぜそうするのかを知らなければならない。それを知ることが本当の責任であると。
責任感に限界を作ってしまうのも問題。誰もが限界以上のやろうとはしないのだ。これが自分のノルマだと考え、そのノルマを満たしただけで、他の事は誰かが引き受ければいいと考えている。自分の守備範囲はセンターラインまでだからと限っても、それでボールが奪われてそれでゴールを奪われたらしたら
日本で起こる多くの出来事は、日本人そのものの生き方や伝統、文化と無縁ではない。地震や洪水、洪水、交通事故等誰一人望まない不幸が起こっている。そこで日本人は多くを語らないが、彼らの表情や仕草からは滲みでている。日常生活でなら問題ないが、サッカーではそうはいかない。ある選手が味方選手に「気をつけろ、背後だ!」と叫ばなかったとする。その選手は自分の背後に迫る相手選手に気づかずに、それで終わりだ。敵のゴールになってしまう。
●「人に何かを言うことを、日本人の誰もが好まない」ということがコミュニュケーション不足の原因ではなかろうか。要するに誰もが表立って人に命令することを、日本人のだれもが好まないのだ。
※相手選手がボール持っているときに自由にプレイをさせないようにチェックをしに行くこと。プレスを厳しくすればするほどボールを持った相手選手は自由を奪われるためパスミスをしたりキープできなくなり、ボールを奪える確立があがる。

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