2009年6月26日金曜日
武蔵野のイメージ
おはようございます。今は武蔵野のイメージを拾うのはなかなか難しくなっていて、想像の世界になりつつあります。
国木田独歩※1&太宰治※2の武蔵野(武蔵野地域自由大学の講義)
国木田独歩の武蔵野の範囲は
池袋の雑司ヶ谷・板橋の中山道をへて埼玉の入間付近を甲武線(飯田橋からの今の中央線の一部)包む立川(所沢、田無を含む)、多摩川を限界とし、八王子は入らない、そして丸子、下目黒、布田、登戸,二子の以上が西反面、東反面は亀戸戸辺、小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍まで。
ツルゲーネフの「あいびき」に出てくる雑木林の美しさを、この武蔵野に重ね合わせている。日本においては新緑の雑木林よりも松が好まれていて、新局面を伝えたかったかのようだ。この国木田独歩は渋谷にすんでいた。このころ人為的な標準語がつくられ、この口語体でつずられた文章とツルゲーネフのロシア文学への憧憬も醸し出していたのではないか。
太宰治は三鷹界隈を徘徊していた。これは想像するに、奥さん津島美知子に言わせると、上下水は原始に近く、新開地というよりも、満洲開拓地のようだというが、亀井勝一郎が度々奈良や京都見物を勧めたが、古典趣味というものはあまりなかった。太宰にとっては井の頭公園、武蔵野の夕日や飲み屋などは青森津軽の自然や気軽な農家風により近かったイメージがあったからだと思う。
太宰のお墓は三鷹駅の南、禅林寺にあるが、ここに彼が尊敬する森鴎外の墓があった。この禅林寺は、関東大震災で被害にあい、ここに移転してきたのだという。太宰のお墓の前面には塚本女史が共に情死した山崎富栄※4に住む家を紹介した人であり、その塚本さんのお墓の横に森鴎外の墓がある。太宰治のお墓には生誕100年ということもあって随分花がたむけられていました。
国木独歩※1と武蔵野;http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html
太宰治※2:http://comet.tamacc.chuo-u.ac.jp/dazai/DAZAI
津島美知子※3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%AD%90
山崎富栄※4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%AF%8C%E6%A0%84
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