2009年6月5日金曜日

和歌の世界


おはようございます。昨日は林望先生の最終の授業でした。いつもなら1時間半なのに、倍の3時間でした。古今集と新古今集についてでした。
今度NHKの大河ドラマにも出てくる正岡子規が書いた「歌詠みに与ふる書」という中で、これらの両書は、王朝貴族の実感のない空想・模倣の歌であるという批判をしているが、その批判は必ずしもあたらないと。
例えば百人一首にもある
月のおもしろかりける夜、暁がたによめる 清原深養父(清少納言の叔父)・古今夏166
  夏の夜はまだよひながら明けぬるを  雲のいずこに月やどるらん

この時代の歌は宮中歌会始めのように 朗朗と読み上げるのを聴くことにあるそうです。それにくらべ現代のはさらっとよんで意味を伝えるという違いがある。
あのころはゆっくりと時間が流れていたそうです。
ドラマの映写を見るようにつながる、といっても分かりずらいが
「夏の夜に」を15秒もかけて読み上げる、そうすると、聴いている人の胸に
夏の夜の情景が浮かぶ、つぎに まだよひながら、順次たどっていくと映像の物語が展開するそうです。
この時代の貴族の一大関心事は恋愛だった。そうすると冬ならば夜が長いが、夏は恋人といる時間があっと過ぎてしまう。あけがたには帰らなければならない悔しさや残念さを歌っている。
まだ「よい」今の時間でいうと夜の6時から8時の時間帯なのに、もうすぎて帰らなければならない、朝になってしまった。あの月はどこの雲の陰に隠れてしまったのか、これを月のかくれんぼと解するのは単純すぎる。情熱的な夏の夜の夢ではなく、この人生は短いのだから、恋人と一時でも長く過ごしたい想いですと。
観念的に感じるのは宮中での歌会は、「題詠」を示されてその場で当意即妙にうたうのだから当然ではあるが、それでも心ときめかせる情感は誰しももっていた。

夕立ちの雲もとまらぬ夏の日の  かたぶく山にひぐらしの聲
                             式子内親王(新古今夏232)

定家と同時代であり、彼よりも才能があるという評価をされていた。
夏の日は火照るくらいの暑さ、夕方ともなると、急にどしゃぶりの雨をもたらした雲が疾駆してゆく、もう雨宿りも間に合わない位だ。
この夕立ちが降りやむと、夕日が沈もうとしている山からひぐらしの泣く声がなんとも、夏の終わりを告げる。(恋人に会えないわびしさもあるのでしょうか)これをゆっくり反芻しながら映像として思い浮かべると、すごいカメラマンのようです。


それで3時間の意味は残り1時間になった時に、朗朗とした素晴らしい歌を聴く楽しみもあるが、それをもっと感じるにはみなさん歌を一首詠んで下さい。この休憩時間にトイレにいってそのまま帰らないでくださいと。
題は①自由、②若葉、③恋愛でやく20分の時間があった。
どうにも浮かべない。画用紙の長い紙3枚が与えられた。
皆ざわざわしたのも、静まり返っている。
とうとう回収の時間がきて3枚の裏表に修正を加えても、納得がいかず下書きの紙をだしたら、新しい紙をくれたので清書してだした。
最後に5・7・5・7・7にするために、鯉のぼりをいれたら下記のような歌になった。

鯉のぼり  赤子の指に柿若葉  我にくれたり 風のそよふく

何と3等2首、2等1首、 1等1首で最後に読み上げられたのが小生の1首だった。賞品は小生の歌を色紙に書いて、裏面に先生のサインだった。嬉しく頂だいてきました。

悔しいのは歌の解説をきくと分かるのに、自分だけで解説を飛ばされたところはよく分からないのでした。

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