2009年6月8日月曜日

夜と霧④解放


おはようございます。麦秋の隣はキャベツ畑にモンシロ蝶が、また紫陽花も花に青空の色です。


気持ちが萎えときには涙することもあったが、涙を恥じることはない。この涙は苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。
夜と霧;新版;池田香代子訳:みすず書房より

しかしこのことをわかっている人はごく少なく号泣したことが折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。たとえばあるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのですか?とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ・・・」自分を待っている仕事は愛する人間にたいする責任を自覚した人間は生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどのあらゆるどのようなことにも耐えられるのだ。
いよいよ強制収容所の最後の部分の解放された被収容者の心理だ。収容所のゲートに白旗が翻った時点で今までの精神的な緊張のあとを襲ったのは、完全な精神の弛緩だった。わたしたちが大喜びしたのだろうと考えるのは間違いだ。
疲れた足を引きずるように仲間たちは収容所のゲートに近づいた、もう立っていることも出来ないほどだったのだ。
仲間たちはおどおどあたりを見回し、もの問いたげな眼差しを交わした。」そして収容所のゲートから外の世界へおずおずと第一歩を踏み出した。「自由になったのだ」と何度も自分に
言い聞かせ、頭の中で繰り返しなぞるのだが、おいそれと腑におちない。自由という言葉は何年もの間、憧の夢のなかですっかり手垢がついてしまっていたのだ。現実をまだそう簡単につかめなかった。今までの居住棟に戻ってきて「なあちょっと訊くけど、きょうはうれしかったのか?」まさに嬉しいということさえ忘れていたのだ。心理学の立場でいうと強度な離人症だった。身体の方は精神ほどはがんじがらめになってはいなかった。ガツガツむさぼり食ったのだ。それが何日も深夜まで及ぶこともあった。数日経過してさらに何日も過ぎて舌がほじくれるだけでなく、感情もほとばしってきた。

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