2009年6月18日木曜日

生花



おはようございます。講演会などあると、檀上にかなり大きな生花が飾られている。最近の家を見ると、和室も小さく、床の間も狭いか、マンションに至ってはないというものもある。

 しかし庭先や、ベランダには花をいっぱい置いているし、誕生日のお祝いに頂いた花はその一角が華やいでみえますね。花屋の店先には毎年見知らぬ花が飾ってあって、名前を覚えるのに、苦労しますね。
生け花は敗戦直後1945年8月15日以降は茫然自失の状態だった。こうなっては到底元の状態には復活せんやろというふうに思われて当然だった。

 主婦の友社の石川社長は社員高村トシに命じて、神戸の御影に居がある小原豊雲の所に赴かせ、勅使河原蒼風との2人展を奇跡的に焼け残った社の東京駿河台下の体育館で開く旨をお願いした。
その神戸で焼けた大丸デパートのウインドウが2つだけガラスも割れずに残っているのを見つけた。豊雲は残ったウインドウに絵と生け花を飾ることにした。焼け跡に咲いている鶏頭、ひまわり、菊などを使った。
「高村さん、腹をへらした人間は、そんなもん見向きもせんかと思うたら、違います。綺麗なものを、食い入るように見つめとるんです。日本人は今、お腹がすいているだけじゃないんですよ」
  
 勅使河原蒼風もこれらを聞いて「2人展の企画を知らされたときは、神の声を聴く思いだった。」と語っている。
蒼風は三番町の庭に埋めた花器を掘り返したり、拾ったジョロなどを代用に花器につかい、花材は野花や野草が大半であった。
開幕の朝10時はすでに大勢の観客が扉の前に立っていた。女はモンペ、男はゲートル姿だった。トシは「無料です。どうぞお入りください」といったが胸に熱いものがこみあげてきて、満足に言葉にならなかった。会場はすぐに身動きできないほどになった。
 
展覧会に集まってきたのは日本人だけではなかった。進駐軍将兵と、その家族たちが押しかけたのだ。
米軍の高級将校たちは、花器の中にわずかな草花や木の枝をあしらうだけで、楽しく繊細な空間を見事に作り上げる日本人に首をひねった。つい数か月前までに戦場で出会う日本人は死を承知で突撃してくる恐ろしい人間たちだったから。様々な抵抗にあう覚悟をしていたが、別の日本人のように見えた。

華日記:早坂暁:新潮社より

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