2009年6月3日水曜日

アパルト・ヘイト



おはようございます。先日世界遺産で、南アフリカ共和国の子供たちが、今行ってみたいところのNO1が「ロベン島※」というところで、あのマンデラ首相も政治犯として収容されていた島だった。この島でアパルト・ヘイトから脱出する方法をまさぐったところだという。よくぞ黒人解放をまとめあげたものだと思います。まだまだその過程がよくわかりませんが、その糸口が見つかりそうです。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%B3%E5%B3%B6。

南アフリカの黒人と白人の融合政府を作っていく過程、それはアパルト・ヘイト「隔離して恨め」ですからそういう差別を受け、人権を剥奪された黒人たちはどうやって白人との折り合いすることに至るかということだそうです。
彼らは委員会を「真実和解委員会」と命名した。真実を見つめる、加害者も、被害者も見つめなければならない。黙って真実を見つめるということが、どれほど大変かということですが、真実を見つめることで、魂から謝罪の言葉がでます。真実を見つめなければ、謝罪は和解につながりません。
しかしそれが軍事大国のパラダイム(枠組)から出てくることはなかなか難しい。彼らは別のことで忙しいから、だから日本および、ヨーロッパの小国、その他の国々、あるいは途上国、そういう国と連帯しながら、世界全体の平和に役立てるべきです。すべては聴くことから始まる、聴くことからはじめないと何も始まらない。聴くということは相手が問題視して、何にこだわっているかを知ることからでだそうです。
問う力:長田弘と猪口邦子の巻

アパルトヘイト(Apartheid)は、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。南アフリカ共和国はこの政策のために32年間近代オリンピックからさえも追放されるなど強い批判を受けていた。
1948年に法制化され、以後強力に推進された。1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後、ANC(アフリカ民族会議)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、国際連合に「人類に対する犯罪」とまで言われたこの制度は完全撤廃された。

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