2009年11月11日水曜日

母親の強さ


おはようございます。昨日は植木屋さんに、10年前もなった植木の剪定をお願いした。お陰でずいぶん明るくなりました。
剪定の間、車の場所をファミレスに移動し、朝の食事もそこだった。朝の利用は初めて、60歳代の夫婦、60歳代の男性が一人で
3卓でした。テーブルがひろびろで、朝の光のなかでよいものでした。

田辺聖子著:iメール:世界文化社より

独身の女の物書はお袋に雑用を任せて、奥さん代わりに使うのが一番便利なのだ。
つながりがとても強固だったお袋に結婚の相談して反対されると、してもよい気になった(再婚で3人の子連れの医師で、亡くなった奥さんは親しい友人であった。彼の魅力と3人の子供の寂しそうな愛らしさにほだされて)。夫をとったのは、夫との生活の方が「展望」がきくし、オモシロそうだったから。そのへんからお袋コンプレックスを脱しはじめていたのだろう。
母との密着は母子家庭で、終戦のトシの12月にが死んで以来、敗戦後の混乱時代を40になるやならずのお袋が3人の子供を育ててくれたからである。大変な時代だから、かえって生きのびられた。闇市で焼け残りの着物を売ろうが、ぼろおを着ていもの買い出しにいこうが、誰もわらうものはない。女親はきりつめて節倹できたし、男なら家の外に
息抜きもほしかったろし、酒・たばこなどのささやかな慰めも要ったろう。しかし女は子供たちと、壊れかかったラジオでも聞いて笑っていれば、たやすく充足できるのだ。男はそんなわけにはいかない。
そんな訳で無一物、女所帯で、やりくりしつつ、私たちはお袋に学校をだしてもらい、つぎつぎに勤めにでるようになった。人生は綱渡りの連続ではあるが、このときはよく渡りきったとつくづく思う。
私のお袋だけでなく、あの大戦で、夫を戦死させたり、空襲で失ったしたあの当時の妻たち、何十万何百万の女たちが、きっとそうやって生き延び、子供を一人前にしてきたのだろう。本当に母というものは強いものである。これがあべがあべこべに、妻が死に、夫たちが子供を育ててゆかねばならないとしたら、それだけの底力を発揮して綱渡りができたろうか、私は大いに疑わしいと思わざるを得ない。

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