2009年11月6日金曜日

ニセモノ・ほんもの


おはようございます。意欲と欲は違うということで、一歩間違うと欲がいろいろ問題を起こすようですね。

ニセモノ師たち:中島誠之助:講談社より

人間の欲がニセモノを生む。

著名な作品、ダビンチの「モナリザ」のような作品を模写するのも大事な勉強ですが、まじめな勉学であれば問題がないが、今度はそのコピーを本物と偽って売り買いする人が出現してしまうと、ニセモノの誕生となってしまう。「非常に優れたニセモノ」は「ホンモノ」と寸分違わない出来具合です。しかし目利きの目をもってコピー作品をみれば「よく出来ているが感動がわかない」ということになり、その新旧はたちまち見破られてしまいます。

欲得抜きで本物
ニセモノ出現とは逆に、市井の雑品の中に埋もれていたホンモノが、眼力をもった人に発見されて、やがて重要文化財に出世した例があるそうです。それは尾形光琳の描いたただ一つの肖像画である。「中村内蔵助像」①という掛け軸です。
1937年(昭和12年)、青柳瑞穂②さんというフランス文学者によって中央線沿線の骨董屋で発見され、わずか7円50銭で買われた。当時でいえば、革靴一足分の値段です。この人には欲も得もなく、単に美を発見しようという気持ちがあったからこそ、そういう
埋もれていたホンモノを発見できたのです。最初から光琳が描いた肖像画ですよといわれて、都心にある一流の老舗の店頭に麗々しく飾られていたら、果たして青柳さんをして買う気にさせたり、学者たちをしてそれがホンモノであると衆議一致して断定できたかどうかは非常に難しい。
ホンモノなのに、いかにもニセモノの扱いを受けかねない作品がいかにもホンモノらしい舞台設定で登場してきた場合、自分の料簡が狭いと素直さが失われて真実が見えなくなる。自分の置かれた状況や雰囲気に気圧されて、子供の立場から裸の王様の立場になってしまう。そういうところでニセモノがホンモノになってしまったり、ホンモノがニセモノになってしまう両方の怖さがある。
① http://www.kintetsu.jp/kouhou/yamato/collection/kaiga_jpn03.html

②http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9F%B3%E7%91%9E%E7%A9%82

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