2009年11月8日日曜日

鎌倉街道



おはようございます。昨日は青梅市の西、日出町に日の出陶房(中曽根首相とロンヤス会談をやった場所の近く)で作陶の手習いにいってきました。自己流では分かっていなかった極基本的なことを教わってきました。

西東京市にも横山道と呼ばれる東西に通じる道があります。これは鎌倉時代の武士で八王子に存在した武士集団の横山党※1のいる西南方向への道筋です。
これが鎌倉街道と呼ばれています。鎌倉街道という字を読むだけで、武士集団の通過した軍馬の蹄の音が聞こえてきそうです。そのほかの古道では市内だけの限定でいえば、東西道路では青梅道、久米川道、江戸道、立川道、関道、鈴木道、五日市道(伊奈道)、札野道があり、南北道路では清戸道、府中道、深大寺道、引又道、谷戸道、片山道(この先にも片山党という武士集団がいました)があります。板碑※2はその名残にようです。
これらの道を住宅地図や古道のガイドで調べていましたが、他の用事で疎かになっています。
鎌倉街道:当時の鎌倉街道とは、御家人たちが緊急のときに、いちはやく鎌倉へ駆けつけるための軍用道路だった。おもな鎌倉街道は「上道」「中道」「下道」の3本に分けられる。
「上道」は鶴岡八幡宮の若宮大路を起点として、群馬県の高崎から信濃、越後方面へと通じていたとされる。「中道」は鎌倉の巨福呂坂(こぶくろ)から大船、戸塚、渋谷、新宿を経て八王子から宇都宮、そして奥州へ。「下道」は金沢街道から現在の都内を通って、東京湾に沿うように下総国府へ向かい、さらに常陸国へと通じていた。これらの道路が整備されたのは鎌倉幕府成立後である。当時京都と鎌倉を結ぶ東海道も、主要な鎌倉街道だったようだ。しかし江戸時代に五街道が整備されると、鎌倉街道は主要幹線道路ではなくなり、古道化してしまった。
※1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A
※2:http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=17&id=305&mode=details

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