2009年4月28日火曜日

歌は命よりも


おはようございます。今日は涼しいようですね。まだ冬ふくを仕舞うのに迷います。昨日は我〃が手作りのシニアかわら版を置いてもらうように接骨院を回ってきましたが、
歯医者の数位あるのには驚きで、患者のほとんどは女性でした。

林望さんの講義が面白いのできっと「平家物語」の面白さも多少は分からせてくれるだろうとおもった。そこで「往生の物語」・死への万華鏡『平家物語』を読んでみました。
そうしたら薩摩守忠度にまつわる一話は原文を舌頭に千転して、その文辞の華を味わい尽くせとありますが、その冒頭だけを複写してみました。

薩摩守忠度はいずくよりやかへられたりけん、侍5騎、童一人、わが身ともに七騎取って返し、五条三位俊成卿の宿所におはしてみ給へば、門戸をとじて開かず。「忠度」となのり給えば、「おちうと(落人)帰りきたり(逃げ帰った)」とて、その内さはぎあへり。薩摩守 馬よりおり、みづからかにの給ひけるは「別の子細候はず」三位殿に申べき事あって、忠度がかへりまいて候。門を開かれず共、此のきはまで立よら給へ」との給へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならばくるしかるまじ。入れ申せ」とて、門をあけて対面あり。

どうして平家の一族がこぞって落ちていった中に、忠度はいったいどこから戻ってきたのか、またそれはどうしてか。
「帝も既に都からお下りになりました。われら一門の命脈もすでにこれまでと存じます。しかしながらこの忠度も歌詠みの端くれとして、なんとか撰集の沙汰も立ち消えとなったこと大きな嘆きでございました。慮外ながらここに一軸に詠草を持参しました、もしや撰集にお採りあげいただけないかと願って参上した次第でございます。我が身が滅びましても、そうなることができましたら草葉の陰で大変嬉しく存じますと。」と心境を述べる。命と歌と同じく大切であったし、あるいは命よりも歌のほうが大事だというふうに聴こえてきます。
俊成は忠度の後ろ影を遥かに見送って門前にたたずんでいた。やがて姿はみえなくなったが、忠度とおぼしい声で朗朗と吟詠するのが聞こえた。そしてその声も次第に遠ざかっていった。

前途(ぜんど)程遠(ほどとを)し、思(おもひ)を雁山(がんざん)の夕(ゆふべ)の雲に馳(はす)。
これは渤海の周文徳という人が唐使として来日し帰国の間際の太宰府の迎賓館で詠ったものだそうです。
さざ浪や志賀のみやこはあれにしを むかしながらの山ざくらかな
これは柿本人麿の本歌があったのを詠じたものだそうです。俊成は朝敵である忠度を撰集に「読み人しらず」として載せたそうです。何と床しい処置でしょうか。忠度はその死の最後の一瞬にいたるまで、武人であると同時に根っからの歌人でもあったのだと。

平家物語の滅亡してゆく公達のなかには、この忠度のように、風流貴公子として何人かあり、その死の直前まで風雅の道を思い離れることのなかったありさまが、また一つの読み所となっているそうです。たとえば敦盛は笛の名手で最後の戦にも腰に笛さしていたというし、敦盛を打ち取った熊谷次郎直実は「あないとおし」この暁城のうちにて管弦し給ひつるはこの人にておはしけり」と言って落涙したという。

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