2010年6月4日金曜日

たった一人の和平工作②


おはようございます。昨日は確かに夏です。このごろの服装は天気予報の気温、室内の温度計、外に新聞をとりのいったときの肌の感じ、それと家族との意見交換によって考えます。
ちうのは外にでると、およそ皆バラバラなのですから。おとといの続きです。軍人がこのような和平工作をしている人がいたということと、軍人にこのような和平教育が行われているかが
おおいに関心のあるところです。また負けを認めさせることのむずかしさを感じずにはいられません。

「消えた潜水艦とたった一人の和平工作」
1945年(昭和20年)3月、連合軍のベルリン進行が進むなか、藤村はついにベルリンを離れ、スイスに向かう。日本海軍の最高機密九一式暗号機と共に。

藤村はスイスに着くやいなや、ハックと連絡を取った。
対米工作ルートを開ける。
藤村はその任ぜられぬ任務に取り組むことになる。
 『君が会うべき人物はOSSのアレン・ダレスだ。』
OSSとはCIAの前身で、アレン・ダレスはそのヨーロッパ本部長の重職を務め、大統領を動かす程の発言力を持っていた。藤村がハックを通しOSSの諜報 員と会合を持ったのは4月25日。さらに会合を進める中、米軍が日本本土上陸作戦を開始していることを知る。
既に日本の大都市はB29による空襲の洗礼を受け、硫黄島の日本軍は全滅、さらに米軍の上陸で沖縄は蹂躙されるがままの状態であった。もはや日本の運命は 風前の灯火であった。
5月3日、風前はダレスと会見、すぐさま和平工作の暗号電を打つ。
 「米要人アレン・ダレスより申し入れあり。日本の取るべき道はすみやかに対米和平をはかることである。」
5月5日、第2電
 「ドイツの最後がかくも悲惨なのは、頑迷な一部のナチスが戦争を継続したからである。日本は断じてドイツの轍を踏むべからず。」
5月13日、第3電
  「ソ連軍は極東方面へ兵力を移動中。」
何度暗号電を打電しても、東京から返事は来なかった。ようやく5月21日になって、東京から返事が来た。それは藤村の想像を遥かに超える返事であった。
 「ダレスの和平工作は、陸海軍を離反させるための敵側の戦略と思われる。充分注意されたし。」
もはや東京の返事は待っていられない状況であった。陸軍によって進められていたソ連を通じた和平工作は連合軍側に筒抜けで、そもそも和平の仲介を頼んだソ 連がヤルタ会談によって対日参戦を準備していたのである。ダレスを通じてその事実を知り業を煮やした藤村はついに独自の和平案すらダレスに提示していた。
6月に入ると藤村はほとんど1日おきに情勢分析と和平工作の暗号電を打ち続ける。しかし東京からはなしのつぶて。
 「OSSの力で自分を東京に運んでくれ。首脳部を説得する。」
藤村の提案に対するダレスの回答は
 「海軍大臣か軍令部総長を海外に連れ出せないか。」
一中佐の力でできることではなかった。
6月20日、待望の返事が米内海軍大臣から届く。
 「趣旨は判った。外務省に回しておく。」
外務省では正式な交渉に入るまで、そして正式な交渉に入ってからも時間がかかる。もうそんな時機はとうの昔に過ぎているというのに。
藤村は暗号電を打ち続けた。しかし、満足のいく返事はついに東京から届くことはなかった。
8月6日広島に原爆投下、さらに9日長崎に原爆投下。
スイス時間の8月15日午後(日本時間8月15日未明)。藤村の元に奇跡的に日本から国際電話がつながった。相手は米内海軍大臣先任副官今村了之介。かす れた声が受話器から流れる。
 「藤村、あの話なんとかできんか?」
 「ダレスとの和平交渉ですか?」
その瞬間そばにいたハックが叫んだ。
 「バカヤロー! 百日遅い! 何をしていたんだ!」
藤村は受話器に向かって静かに言った。

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