2010年6月28日月曜日

記憶は思い出せないとき作ってしまう


おはようございます。裁判員制度が始まって、免罪事件に関心をもつようになりました。「疑わしきは罰せず」というのは日本ではまだまだという感じがします。
又人間の記憶の結構曖昧な点があるということが分かるようになると、ますます『疑わし木は罰せず』への心配りが必要です。又裁判の怖さを感じます。
下記はややっこしい話でした

証言の心理学:高木光太郎著

日常的に販売しているごく普通の部品についてだった。

実際、捜査の協力を依頼されているTは捜査員に「よく覚えていない」とこたえていた。
店にT自身のサインがあることを示して、この日の販売について思い出すように求められた。伝票をみたTは自分がこの日に「AB41-03-5」という型番の電磁弁10個をK電機のKなる人物に売ったことを認めた。しかし出来事を事実として認めることと、その出来事の記憶(思い出せる)を持っていることとは別である。

肝心のKなる人物の容姿は伝票に記載されていることはないので、Tの記憶に残っていなければそれで終わりである。しかしTは善意であろうが思い出す努力を始めてしてしまった。Tは捜査員の用意した写真帳から選ぶことになる。このとき捜査員は「見たことのある人は何人でも選んでください」この説明は捜査員のミスなのだそうです。

Tが探す必要のあったのは電磁弁を10個買っていた人物なのである。つまり特定の時間と場所に結びついた人物を思い出すことであった。それが「知っている」「見たことがある」これは今朝電車の中でTの足を踏んだとか、昨夜みたテレビのニュースで何かのインタビューにこたえた会社員に似ているかもしれない。しかし伝票に自分のサインTをみたので、自分の「見た」「知っている」と感じた人物を容易に電磁弁の販売日のあいまいである記憶らしきものに、結びつけてしまうだろう。こうしたTの記憶のなかにFが登場する様々な出来事を思い出しはじめ「客がきたとき、表に車はいなかった」「客が入ってきたとき、私は整理戸棚の前にたっていた」「客が声をかけるまえに自分のほうからいらっしゃいませと言った」「自分のポケットからボールペンを出してサインを求めた」日常よくありそうな出来事のパターンで記憶の穴を埋めるのである。

T証言の構成はひとつの仮説が、自分の記憶の脆さを、周囲の人々の記録に支えを求めそれを自分の中に取り入れてしまうのはむしろ普通で、実際には体験していない事柄が多くが混入してしまった可能性がきわめてたかい。

写真帳から選び出すときに、346枚の写真をみせた。この枚数は8枚程度から大きくて50枚位がよいそうで、それも首から上など顔以外は見せていないことが大事。多いと自分の出会った人物、五百羅漢の中に自分が出会ったことの人に似た人がいるようなる。類似しているから、歪めてしまう。それがFの写真は他の写真と違ったパターンの特異なスナップ写真を見せたので、この写真は浮き立ってみえ、それだけで相当の影響をうけ記憶を鮮明にしたかのようだった。

こういう繰り返しで下手に補強されたFの写真が「合った」という記憶になってしまった。(このように浮き立った写真について実験した早稲田大学の富田達彦の興味深い際限実験で、被実験者60は名は一度もあったことがない人の「浮き立った顔」について何と25名の人が「見たこと」と答えたといのである。見たような気にさせるという要素が極めてたかいことが分かる。
結局Tの記憶が捜査員、サイン入り伝票、偏った写真帳、これらがTの記憶の「脆さ」に出会ったとき、Fを主人公にした「記憶」が生まれ、動き始めたのである。

Fは10年の裁判ののちに無罪になった。

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